
|
8月1日は終戦記念日。ことしは日本敗戦60年。マスコミは情緒的でなく、この60年間、世界中でいかに愚かな戦争や内乱があったかをダイジェストする必要があろう。いまだからいえることがあるのだ。私は今回、貴重な歴史秘話を提供しておきたい。かくしテーマは「官僚」。背景は「政治」である。
平成9年6月18日逝去した故・松原美義氏から、生前聞いた話をご紹介しておこう。
松原氏は一橋大学卒の秀才で同期の友人に戦後、三井物産副社長となる町田栄次郎氏、同社社長となる水上達三氏。三菱地所社長になった伊藤達三氏、松下電器の理事になった異色の乗松健二氏がいる。松原氏は昭和13年、第1銀行に入行するが、同年9月召集令状がくる。陸軍高崎15連隊に入隊、やがて経理部将校となる。同期に戦後、行政改革審議会の鈴木英二氏、サンケイグループ創設者の鹿内信孝氏、東大法学部長の辻清明氏がいる。
松原氏は陸軍航空本部に配属され、昭和16年の春「上海で物資を補給せよ」と密命を受けた。この時は主計中尉。自決用の拳銃を渡され私服で上海へ向かう。7月上海に着くと憲兵隊長から物資にかかわる人物達を紹介された。日本国内では話せない情報が左右に飛び交った。「アメリカと戦争しても勝てない」という説が定着していた。ところが7月25日、アメリカは日本の海外資産を凍結した。東南アジアを支配する日本への経済制裁である。陸軍の予算は日本銀行で円をドルに変え、ドルが上海の正金銀行へ送金されていた。これを現地の通貨と交換していた。経済制裁で資金がない。上海での物資調達どころか自分の滞在費もなくなった。「資金がありません」と日本へ連絡すると東京の参謀本部から極秘電報が届く。
その内容は、○日○時、上海の大場鎮飛行場に台湾からの重爆撃機で荷物が届く。その荷物を上海にいる児玉誉士夫氏に届け現地の通貨を受け取れという。
荷物の中身は阿片だった。児玉誉士夫氏はパジャマ姿で現れ、荷物を受け取り、現地通貨を渡してくれた。物資調達の主なものは兵器をつくる銅板だ。銅板が足りなくなると上海の通貨、銅弊(どんぺい=銅と鉛でつくられた)まで日本へ送るようになる。
松原氏は現地に友人ができた。その友人とは中国人である。「この前の取引では児玉さんにずいぶん儲けさせたね。われわれなら、もっと高く買うよ」という。松原氏は10人位の中国人と話し合い、次の荷物を、その仲間に渡し、現金を受け取った。最高級ホテル、ブロードウエイマンションの1室で取引を済ませ「乾杯!」と祝杯をあげた時だ。大勢の憲兵が踏み込み、全員逮捕された。松原氏は身分証明を見せ「憲兵隊長に会わせろ!」と叫んだが何の効果もなく連行され、憲兵隊本部地下室に放り込まれた。翌朝「中尉殿、どうぞ」と憲兵曹長が留置場に出迎えた。案内された部屋では憲兵隊長と児玉誉士夫氏が食事をしながら笑っている。「松原君、上海で内緒の動きは駄目なんだよ」と食事に同席させてくれた。
軍の行くところ必ず児玉機関のスパイがいた。軍としてはばかれることは児玉機関が動いた。たとえば、慰安所は児玉機関が設けた。現地女性を強制連行する必要はない。彼女達は自ら通貨より軍票を欲しがった。この時、松原氏は26歳。児玉氏は36歳。お互いに友情が生まれた。児玉氏は愛国の汚れ役なのだ。
12月8日の朝、ドドーンという大砲の音で目が覚めた。窓を開けると港に停泊するイギリス船が炎上していた。日本軍が真珠湾を攻撃した時だ。第2次世界大戦のはじまりだった。松原氏にも反日グループから脅迫状がくるようになった。児玉氏の配下に守られて松原氏は上海を脱し帰国した。昭和20年8月15日、日本は敗戦する。自殺した日本兵は多かった。
日本はアメリカ主力の連合軍に占領された。マッカーサー総司令官の戦後処理は鮮やかであった。日本の復興は日本人の手で行われた。松原氏は商工省(通産省)整理部第1補償課長に乞われる。戦時中の軍需産業に対する政府補償が業務であった。上司は政財界で活躍する大来左武郎氏だ。民間企業から未払い額の請求書が山積みされた。松原氏の判ひとつで企業再建が決まる。石川島播磨重工業の代表として現れたのは土光敏夫氏だった。松原氏の審査は厳しかった。土光氏をあまり評価しなかった。
商工省での戦後補償が終わる頃、松原氏は一橋大学の先輩、原秀熊と再会し「一緒に事業をやろう」といわれOKした。原秀熊氏は佐藤栄作氏(元首相)の義弟だ。こうしてスタートしたのが現在も東証一部上場企業の第一電工である。松原氏はやがて社長、会長、相談役となり、晩年を悠々自適に過ごした。日本の戦後が平和裡に発展した影の功労者であり、最後の財界人といわれた。
生前、何度か病床を訪れた私が「政府の経済政策はおそまつですね」と雑談した時、松原氏はこう答えた。「政治家や官僚に経済はわからない。戦後の発展は経済界の努力です」
了 |