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私は少年時代から映画が大好きであった。母と一緒に、よく映画館へ通った。「愛染かつら」は同じものを何度も見た。私が5歳になった昭和16年の秋までは洋画も観た。その中で忘れることができない映画は当時世界的大女優マレーネ・デートリッヒとゲリー・クーパーの「モロッコ」であった。映画音楽も覚えた。終戦直後、アメリカ進駐軍の兵隊と仲良くなった時、その音楽を口ずさんだが彼は首をふってわからないといった。私は音楽と画面を鮮烈に覚えていた。砂漠、外人部隊、外国人女性の娼婦がめずらしかったのである。おそらくこの米兵は田舎育ちか貧民街育ちだったに違いない。
敗戦後、アメリカ映画が日本でも上映されるようになった。中でもボブ・ホープの「アラスカ珍道中」などが人気を呼んだ。つい最近まで「鬼畜米英」と叫んでいた日本人たちが無邪気に、こうした喜劇映画を爆笑で歓迎した。節操がないなどというなかれ。日本人は貧しくとも平和で笑顔のある明るい暮らしに飢えていたのだ。これがアメリカの占領策だったといえなくもない。戦後平定に音楽と喜劇映画は効果的だった。
ともかく戦後復興の中で魅了的な娯楽として登場した洋画、邦画、とくに喜劇映画は人々の心に清涼剤のように溶け込んでいった。ドタバタ喜劇は画面を見ているだけで面白かった。観ている間はすべてを忘れた。「喜劇映画は言葉がわからなくても、わかるからいいね」と友人と話したことがある。テレビがない時代、映画の果たす役割は大きかった。まだ荒廃した街の中で、繁華街の中心には必ず映画館があった。映画を見終わったあとの観客は、みんな楽しそうな表情をしていた。それは幸せな光景でもあった。戦後復興の原動力だ。
ボブ・ホープをはじめとしてチャーリー・チャップリンやバスター・キートンの作品も、あらためて上映された。あらためてというのは、昭和16年に第二次世界大戦がはじまる以前、すでにチャップリンやキートンの映画は(無声映画として)日本で上映されていたのである。その強烈な影響を受けて日本でも益田喜頓という喜劇俳優が登場していた。以後、日本でも宝塚の女優達による映画「狸御殿もの」が上映された。進駐軍の命令で時代劇が許可されるまでは戦前から人気のあった関西の爆笑漫才エンタツ、アチャコ、東京・浅草のエノケンが映画に活躍、一世を風靡した。テレビのない時代なので、その人気ぶりはすごかった。映画館は連日、立見客がいた。その中で新時代感覚のコメディ・バンド「ダイナーズブラザース」をつくったボードビリアン川田晴久が登場した。カンカン帽をかぶり「地球の上に朝がくる〜。その裏側は夜だろう〜」(メロディーは浪曲調)と歌い、ものまねや笑いをふりまいた。彼らも映画に出て一躍有名になる途上だった。
この川田晴久が昭和23年、横浜国際劇場で11歳になる少女と出会った。その当時、大ヒットしていた笠置シズ子の「東京ブギウギ」をド太いカスレ声で見事に真似した。子どもの真似をする大人はいる。だが本格的に大人の真似の出来る子どもはいなかった。少女は川田晴久の世話で映画に出た。それはほんのチョイ役だったが観客は「あのチビッコは何だ」と強列な印象を持った。映画は宝塚女優によるミュージカル「踊る竜宮城」。この映画を私は3度も観た。ちらと出るチビッコを観るためだ。少女は「河童ブギ」を1シーンだけ歌った無名の美空ひばりであった。
(続く)
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