(2)笑えないぞ! <その1> |
|
by イジワル・ジイサン |

クサインダヨ、
クソジジイ!
ナンデヤネン!!!!
ウルサインダヨ、
クソババア!
ナンデヤネン!!!! |
現役をしりぞいて、3年間、朝から夜おそくまで、テレビばかり見ていたら、思わず「バカにするな」とか「これはひどい」と思う番組を見ることが多くなった。私は、これでずいぶんバカになった。くだらない画面をみて笑っている自分に気がついて、ぞっとした。これでは健康に悪い。
とくにひどいのは、お笑い番組だ。笑いは、健康によいと思うから、とぼけた司会者の芸でバラエティでもウンチクでもゲームでも見ているが、ただ一つ、まともな「お笑い番組」は「笑点」だけである。いま、どんなお笑いでもテレビに出れば「女の子にもてる」と1,000人を超える若者が、芸人になろうとしているというが、これは、とんでもない錯覚である。「笑い」をバカにしている。
まずマジメに、問題点をあげてみよう。@なにを話しているのか、わからない。A出演者が自分たちだけで笑っている。(視聴者不在)B子供のような、おふざけで芸人ぶる。Cうまくいないのに、うまいという。D90%は個性がない。E同じ芸風が多い。F司会者はお笑い芸人になってはいけない。G他人をバカにして平気でいる。Hバカを売りにすることとお笑い芸は、まるで違う。Iその他、細かく言えばキリがない。例えば、チャップリン。バスター・キートンなどが大正時代から昭和15年まで、日本中をわかせたのは、会話がわからなくても現代まで通用する喜劇の面白さを見せてくれたからである。 |
|
また戦後、浅草から生まれたエノケン「東京ブギウギ」を歌った笠置シズ子と競演した映画「お染久松」は喜劇の逸品だった。これらに共通していることは出演者自身が、絶対に笑わないで、時に悲しい表情さえ見せたことである。
最近ではあの映画「男はつらいよ」だろう。この映画を見て笑った人には、二通りありと思う。笑いは理屈ではないというが、商売にするからには、計算があるし努力がある。「寅さん」映画は単純に笑う面と、底知れない悲しさの面がある。時につじつまの合わない部分があっても、笑いと個性で観客、すべてを許してしまうのである。山田洋次監督は本当に描きたいことと商業対策で葛藤したはずだ。
ま、こんな話をしたのは、テレビがない時代まで、ラジオでは、落語や漫才や漫談(まんだん)それに浪曲、講談が人々を魅了した。この時、古典落語でなければ、落語家ではないといわれ、業界で白い目でみられたのが、故・林家三平の「立って10秒間に1回は笑わせる」という超漫談であった。当時は有名な漫談家もいたが「ちょっと待って、よし子さあん」と歌まで歌ったのはこの三平さんだけである。いまだに彼を超える落語家はいない。また柳亭痴楽による「まだ上げ染めし前髪の」と腹から笑える川柳やつづり方教室などは、芸術そのものであった。柳家ミキマツのドドイツは子供だった私でさえ魅了された。 |
|
|
|
これらは、ニッポンの伝統芸能を継承しながら、新しい時代に即応したもので、共通しているのは、お色気であった。芸人は下ネタをいうようになったら終りという社会通念があったが、その頃まで芸人は、かくし味として笑わせた。現代では女優や歌手まで、お笑い演芸者と一緒になって平気でいうから、まったくひどい時代だ。
韓国で濡れ場を演じた女優が自殺したことは記憶に新しい。何でも風土と限度はあるのだ。挑戦と改革は違う。「何でもあり」は結構だが、いつの間にか、ニッポンの伝統が消えてゆくようで、さみしさがある。故・コロンビア・トップの漫才が、かつて政治を皮肉って、大いにウケたものだが、いまは気骨のある、お笑い芸人もいない。それを持ち上げているテレビ局は、同じニュースを何回も流す。穴埋めに古いドラマを流す。ひどい時は、1週間前と同じドラマを流す。そして「スクープ」ものは、数が減る。
笑えない事態がマスコミのうしろで人知れず進行しているのではないか。視聴者というより国民の目を、違う方向に向けているように思えてならない。それが事実なら本当の笑いが消えるはずだ。初恋を楽しく漫才にできないか。老人の叫びをオカシク漫談でいえないか。「ばばあ」ということが、どんなに老いた女性を傷つけているか考えたことがあるか。若者に「世間知らずのバカ息子」といったら殺されるのではないか。笑いは思いやりにはじまると思うのだけれど。
了 |
|
1 2 |