中高年・シニア世代の「問い」
中高年・シニア・マチュア世代交流サイト【い〜悠々ドットコム】
文字サイズの変更
い〜悠々トップページ中高年の楽しむ情報中高年の感動する情報シニア世代の問い 御意見投稿



【連載】

長崎被爆体験記「静かな地獄」−9

戦後イメージ
 
by 遠武米夫 さん
木片の注意書き
山口駅前の古井戸の側に落ちていた葉書大の木片。絵は筆者。
駅員も正吾の話を真剣に聞いている。駅員も玉音放送が本物であることを確かめたという。国鉄の職員ということもあり情報の一部は知っている。ただ、対等の終戦か、敗戦かわからないという論議をしていた。降伏であれば、今後、国民生活はどんな迫害を受けるか、心配していた。

「水ば飲みたか」と菊江がいう。駅の水道は断水している。駅員も「一度帰るので、駅には誰もいなくなりますが、もし汽車が来たら乗ってください。切符は要りません」という。駅員がいなくなると、また誰もいなくなった。

「水はなかね」と、また菊江がいう。ふと見ると、駅の外側の一画に古井戸があった。のぞいてみると底に水だまりがある。「少し位、汚れていてもいい」と菊江はいう。つるべに下がる汲みあげ桶を落として、水を汲みあげた。菊江、私、隆子が、むさぼるように飲んだ。正吾は飲まなかった。

三人が井戸水を飲んだあと菊江が、井戸の脇に葉書大の木片を見つけた。それには「井戸水は飲むべからず」と薄墨で書いてある。それも小さく書かれており雨風で消えかかっている。「もっと大きく書いてくれんと、これじゃわからんよ」と菊江が愚痴をいったが、もう遅い。しばらく沈黙したあと、気をとりなおして「大したことじゃなか。もう、この水は飲まんようにすればよか」と自問自答していた。

正吾は黙って私や妹をみた。数時間すぎても変わった様子がないので、ほっとして眠りこんだ。陽が落ちて夜になる。正吾は駅の中で火を焚き、もう一度、外の井戸水を汲み、飯ごうで沸騰させた。水はぐらぐら煮れば消毒される。「これで飲める。大丈夫」と正吾が三人の顔をみた。火を消して飯ごうの水をさますと、器用に一升瓶に入れておいた。明朝になれば、また水が必要になると思ったからだ。

山田駅に汽車が来たのは三日目だった。その間、約一時間かけて正吾は親しくなった農家へ行って、安全な井戸水を、もらったバケツに入れて運んできた。それで麦飯を炊いた。芋は焼いた。野菜も柔らかく煮ることができた。

一日、一日、生きた。明日はどうなるかわからない。死ねばゴミのように処理される。名前さえわからないまま焼却される。生きて名を残そうとは思わないが、見ず知らずの人にゴミのように処理されるのはご免だ。口には出さないが、親子三人、浦上の死骸処理の光景が、強烈な印象として残っていた。

諫早駅から長崎本線に乗り換えても、長崎駅はない。途中で降りて二日間かけて、長崎市内に着いた。まだ灰燼の霧が残り、空は見えなかった。それでも次第に被爆の状況がわかりつつあった。被爆による火災は、長崎の真ん中の小高い丘陵を境いにして、かろうじて止まっていた。

  
思案橋に続く繁華街は、飛び火で燃えたところもあるが、大半は焼けなかった。ただし道には倒壊した建物の破片が散乱した。市電は不通になっていた。米軍の上陸は、まだない。稲田町の自宅に着いた時、私達は、倒れるように横になった。

翌日から家の掃除をして、ようやく、かまどに火をつけることができた。近所にある井戸の水は、きれいだ。近所の人達も、ちらほらと帰宅して生活の場を整えはじめた。私の仕事は毎日、一升瓶に玄米を入れて、棒でつつくことであった。玄米の皮膜が取れて白米になる。簡単ではない。根気良く一日中つついた。麦を混ぜ、久々に白米ご飯を食べた。塩や醤油がないので、大波止まで出かけ、海水のきれいなところを汲んできた。

海水は糞尿も混じるので、やはり火で炊き沸騰させた。半分位に減ったところでで、ようやくおかずの調味料になる。薩摩芋は主食にも、おかずにもなった。菊江と私、それに妹の隆子の体調が悪くなったのは、家に落ち着いて三日目からである。空腹になっても食欲がなく、下痢に苦しんだ。

(つづく)




皆様の「問う」をお寄せ下さい。ご投稿お待ちしております。 御投稿窓口



い〜悠々トップ   問う一覧



関連書籍