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【連載】

長崎被爆体験記「静かな地獄」−8

戦後イメージ
 
by 遠武米夫 さん
山田村
山田村の田園の緑地。大きな木の横で蚊帳(かや)をテント代わりにした。絵は筆者。
その夜は、ぐっすりと寝た。

八月十五日。
むし熱い朝が明けた。テント代わりの蚊帳は、そのままにして食べ物の臭いで、蝿や蛾が集まりはじめた。正吾は、借りたバケツを持って付近の農家へ出かけた。交換する物がなくても、何か食べられるものを、もらって来るという。余分な食糧を確保できる自信がありそうだ。話し上手なので長崎の状況をくわしく話してまわるという。田舎の人達にも長崎の異変は噂になっていた。

この日の朝はラジオから異常な放送が流れていた。「本日正午、天皇陛下御自らの重大放送があります」という放送が、何度か流れていたようだ。正吾は、それを聞きたいため、ある農家で時間をつぶしていた。

正午になった。ラジオから重々しいアナウンスが流れた。「ただいまより重大な放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います:天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも、御自ら、大詔をのたまらせたもうことになりました。これより慎しみて玉音をお送り申します」

このあと「君が代」が流れ、玉音放送が流れたという。玉音とは天皇陛下の声という意味である。天皇陛下の写真は自宅にも飾っていたが、声を聞くのは、はじめてだ。陛下は神であった。この放送は避難民以外の全国民が聞いていたに違いない。だが「朕深く世界の体勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして、米英支蘇(アメリカ、イギリス、中国、ソ連=ロシア)に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。(中略)堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かむと欲す(以下略)」の部分を正吾はしっかりと覚えた。

それは、弁士時代の台詞を覚える感覚がまだ失われていないことを、示すものである。農家の人は「どういう意味か、わかりますか」と正吾に聞いた。正吾は「戦争が終わったということです。忍び難きを忍びとありましたから、負けたということでしょう」と答えた。

「さすがは町(都会)の人ばい」農家の人々は正吾を見直し、態度を変えて玄米を二升もくれた。学者だと思ったに違いない。「声は天皇陛下の声に間違いなかね」と問われている。正吾は、「天皇陛下だとウソの放送をしたら、本人や放送関係者は死刑でしょう」と答えて、農家の人々を感心させた。正吾は、米や野菜を持ちきれないくらい持って、妻子の待つ、蚊帳張りに戻ってきた。

  
「戦争が終わったよ!」というのが私達への第一声であった。「どうしたとね。そんなにたくさん食糧を抱えて。もらったと?」と菊江が目を輝かした。正吾は興奮しながら農家での出来事をくわしく語った。久々に誇らしいところを見せた喜びをかくせない。
「おれは学者と思われた。いままで、怪しんで見た人も、態度が、がらっと変わったもんね」と心から、うれしそうだ。私は、この時の父ほど誇らしく思ったことはない。

「とにかく早く長崎に帰ろう。家がどうなるか心配になる」と、蚊帳を外し、持ちきれないほどの米や野菜を包み直し、山田駅へ向かった。 山田駅は相変わらず、ほこりにまみれた古い駅の姿をさらしていた。まるで無人駅のようであったが、二、三人の人影が見えた。灰燼で暗い長崎と違い、空は青く、日照りが強い。駅の待合室の長椅子に荷物を置いた。

やっと見つけた駅員に聞くと、汽車はいつ来るかわからないという。仕方がない。泊まるところはないから、また、ここに待機させて欲しいと正吾が駅員に頼むと、快く諒解してくれた。

戦争が終わった。これからどうなるのだろうなどと話している。

(つづく)




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