
被爆で溶けた6本の瓶。爆心地より約400メートルから発見された。高熱のため瓶の上部が溶けてくっついている。(長崎原爆資料館提供) |
それにしても平気で死骸を次々と放り込んでいる黒い影は一体どんな神経なのだろう。死骸をそのままさらして放置するより、ましかも知れないが。遺体は、どこの誰だか確認もできない。死骸を早く焼却して、焦土から死臭を消す。そして早く焼け野が原を整地しなければならない、という復興作業であることに間違いなかった。何体焼却しているのか、記録をしている者もいない。
その作業ぶりは手際がよい。軍の関係者に違いないと思う。しかし炎の周りにいる男達は兵隊服や警官姿ではなかった。町の有志なのだろうか。男達にも家族がいるはずだ。その家族を放って、早々とこんな作業をしていることに違和感を覚えた。合掌する者もいない。経を唱える者もいない。むろん焼却される死骸が誰であるか身許確認など、するどころではない。
まるで忌まわしい物を早く処理しなければという様子であった。めずらしいという思いで、私は数メートル先に立って見ていた。「健好!何ばしとっとね。早くこっちへ来んか」と、また背後の正吾から怒鳴られた。戻ると。「見るもんじゃなか。近寄ると怒られるよ!」と菊江が私の頭を叩いた。母親に叩かれるのは、はじめてであった。しかし、こうした焦土原の火葬は何か所も浜口町の先まで続いた。
あとで、この付近が爆心地であったと知るのだが、その時は知る由もない。まだ焼け跡の異臭が漂う暗い町を、点々と見える屍骸焼却の明かりを頼りに歩き続けた。明かりが見えなくなると、ぞろぞろ歩く避難民の後ろについて闇の中を歩いた。人の後について行くしかない。どこから汽車に乗れるのかわからない。いつまでも歩き続くので、途中で休むのだが、人の群れが途絶えはじめると、あわてて、後を追い、浦上から十キロ、二十キロいや三十キロは歩いたと思う。
八月十四日。どうやって、どこから汽車に乗ったか覚えていない。気がつくとまた山田村の田園の真ん中にいた。ここだけは畑の広がる平和な田舎だった。灰燼の霧もない。田園の中に一本の大きな樹があった。太陽の陽射しを避けて樹の根元に敷布を敷き、虫に刺されないように緑色の蚊帳を張った。正吾は、近所の農家をまわってバケツと一升瓶をもらい、水を運んできた。ブリキの飯ごうに麦と玄米少々を入れた。
次いで土を掘り、その中に枯れ木の小枝や枯葉を入れ、マッチで火をつけた。火が燃え始めると、その上に飯ごうをのせた。本当は、飯ごうは太い枝に下げ、直接、火に乗せることはしない。だが適当な支え木がない。横に倒れないよう注意しながら炊くしかない。飯ごうはみるみる火煙りで黒くなった。それでも何とか炊飯できた時は、家族四人の顔にはじめて笑顔がそろった。
四、五日分の食糧はある。足りなくなれば、正吾がようやく親しくなった付近の農家から、最低限の調達ができると笑っていた。お人好しを絵に描いたような人相をしているから、信用されてきたようだ。小柄ではあるが家族を守るという男の筋金だけはあった。
夜になる。蚊帳を張った野宿は、九歳の私にとって何となく楽しかった。蝉の声が遅くまで聞こえた。
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