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【連載】

長崎被爆体験記「静かな地獄−5

戦後イメージ
 
by 遠武米夫 さん
被爆の夜
被爆日の夜。愛宕山から。向かいの山は稲佐山。絵は筆者。
竹薮には、私達の周りにも何人かの避難者がいた。誰もが、この見たことのない出来事に不安な表情を抱いていた。お互いに顔を見合わせる時、その目は「この世の終り」という悲しみに満ちていた。家族四人は固まって離れなかった。このような状況の中で、誰かが襲われても、誰も助けてはくれないだろう。町の炎がどこまで広がるのだろうという恐怖におののいた。

何人かが竹薮を出た。私達も竹薮の外へ出て、夜の長崎を見下ろした。その時、私は思わず、いい放った。

「うわあ、きれかぁねえ」九歳の私には、その炎の中に人間がいるこという意識がなかった。

長崎は入り江を中心に町が三方に広がり、町は山々に包まれている。港の北側、稲佐山の裾には三菱造船所があり、西北側の浦上には軍需工場があった。南側は稲佐への連絡船、五島などへの連絡船が発着する大波止。その手前から少し丘陵になり、その坂道を越えた坂の下に繁華街がある。思案橋はその繁華街の南側に面している。火は丘陵を境いに勢いを落としているのだが。

この山頂からみる鮮やかな朱色の海は六十年過ぎた現在でもスケールの大きい強烈な印象として残っている。大量虐殺である。すでに日本列島の空は連合軍の思うがままの状態になっていた。米軍機空襲を迎え撃つ飛行機もなく、飛来する飛行機へとどく大砲(地対空ミサイル)もない。

とにかく私は一生に一度しか見ることができない火の海絵図を見た。背後で正吾が「馬鹿もん!そぎゃんこというな!」と怒った。

「全滅ばい。みんな死ぬたい。朝までに家へ帰ろう。せめて家にいよう。ここも危なか」と菊江も、身を震わせた。そして買出し袋を強奪されることを警戒した。

「米軍が上陸してきたら殺されるばい」と正吾がいう。これから一体どうなるのか。恐怖や不安を通り越して、一寸先の闇の中へ、ただ歩くしかなかった。怒られて恥ずかしい。私は何という馬鹿なことを口走ったのだろうと後悔した。

稲田町の自宅に帰り着くと、親子四人、肩を寄せ合って熟睡した。翌朝、外へ出て様子をみると相変わらず暗く全市を覆った灰燼の霧が立ち込め、一メートル先も見えない。それでも翌日から、人々が動き出した。ゴミ色の霧は深く静かに動かない。町はどうなっているのか。のろのろと動き、身近な建物や焼けた建物を確認する。みんな自宅を捨てて、どこかへ新たな避難をはじめた。私達家族も、長崎を逃げなければならないと思った。敵兵が迫っているという噂が広がっている。

二日目の夜、家を出た。今度は食糧だけでなく、野営できるよう蚊帳やうすい布団、防空頭巾をリュックに詰め込んだ。井戸水で衣服を洗い、隆子の着替え、おむつもきれいに水洗いした。

わが家には、疎開先がない。田舎に知り合いもいない。野宿を覚悟の避難であった。正吾が近所の人達に聞くと、ようやく汽車が動きはじめたという。一刻も早く田舎の方へ逃げなければという恐怖が高まった。噂が交錯して不安が町を駆けめぐった。

路面電車は動かない。路上の線路も見えない。思案橋界隈から白い粉のような灰燼に包まれた建物が続いた。倒壊したところもあるが、繁華街は原型をとどめていた。港を囲む軍需工場の多浦上側が完全に焦土化していた。それが、わかったのは、長崎駅前にたどり着いた時であった。木造建ての長崎駅は消滅していた。駅前の丘の形で、ここに駅があったとわかる。それよりも、駅跡の、とくに広場のあったところは、焼け焦げた死体が、いくつかの山になって積み上げられていた。

  
死臭が強く漂う。九歳の私は、ものめずらしくその死体を眺めてまわった。黒こげ死体は顔、腕、足、胴の半分が崩れているものが多かった。さわれば、ぽろりと腕が落ちそうなものもある。人間であったと思わせるのは、皮の割れ目に、まだ赤い身が見えることであった。衣服はボロボロで、男女の区別もつかなかった。まして年齢など推察できる状態ではない。

米軍機は長崎に投下する場合「賑町」を目標にしていた。賑町は浦上とは山を越えたところにある繁華街である。そこが爆心地になっていたら、思案橋は近い。私達の命は一瞬で失われていた。犠牲者の数も倍加していた。はるか上空の入道雲の隙間から見えた眼下の長崎は浦上だけが、はっきり見えていたという。その事実は五十九年後に知る。

(つづく)




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