
原子爆弾投下直後の「きのこ雲」(米軍撮影・長崎原爆資料館提供) |
山本仏具店は思案橋から丸山町に通じる商店街の入り口にあった。特等地である。名店の一つであった。お茶が出て、軽い朝食を出してくれた。朝食といっても、おかゆと漬物だった。それでも私達にはご馳走だ。まず水を飲んだ。心から落ち着いた。私は一つ年上の叔母の長男、健三と二階に上がり、二人で鉛筆を持ち、画用紙に絵を描いて遊んだ。二階は六畳の間で、表道路に面して障子が閉められていた。
午前十一時。遠くに、かすかな警戒警報のサイレンが聞こえた。それは、本当によく耳を傾けなければ聞き取れないほど、かすかなものであった。二人とも、ぴたりと絵描きをやめた。
「サイレンが聞こえるよね」とうなずき合った。階段の上から階下に叫んだのは私だった。空襲はサイレンの音から三分位あとが普通だ。まだ緊迫感はない。
「警戒警報よぉ」それは、のんびりした声であった。階下かの返事はない。サイレンの音が遠くであったから、近くではないという判断がある。ところが二分後、つまり十一時二分。障子の外側に閃光が走り、ドーンという地響きを立てて、外が真っ暗になった。階下は電気も消えて、ガチャ―ンと物音がした。息づずまるような恐怖が走る。
「焼夷弾が落ちた!」焼夷弾が店の前に落ちたとばかり思いながら、ころげるように階段をおりた。階下は、奥の台所に二つの家族がしゃがんで集まっていた。あとで菊江から聞いた話では叔母は何故か洗面器の水に顔をつけて、あっぷあっぷしていた。この家も燃えるのではないかと思ったが、火災は道一つ隔てた思案橋界隈で止まっているようだった。外は真っ暗なのでよくわからない。私は炊事場の隅にうずくまった。
ただごとではない。と思ったのは、数人の見知らぬ通行人が血だらけで何人も私達のいる台所へ次々と避難してきたことであった。その中には兵隊がいた。破れた服から血が流れている。頭から顔中に血を流したままの女性もいる。本人は自分がどんな状態かもわからないようだ。ただ恐怖に震えて、とりあえず避難してきたという感じであった。だから、血まみれの人々は外が静かになると、真夜中のような外へ出て行った。他人の家の中に避難していることに遠慮があったのだろう。
彼らは明らかに外で閃光を浴びていた。足をひきずり、放心したように、どこかへ向かって行った。
のちに、この時の爆弾は「ピカドン」と呼ばれる。原子爆弾と知るのは約1年後のことである。通行中の、多くの人は確実に放射能を浴びたのではないか。さらに、血を流した人達は、白血病になったのではないか。私達がいた仏具店は爆心地から三、八〇キロメートルと、のち被爆手帳に記されているが、実際は、四キロ先でも閃光を浴びた人は白血病になったと聞いたし、三キロでも新聞紙一枚で閃光を避け助かったという話もある。医学的根拠はわからないが、閃光を直接浴びるか浴びないないかで、生死を分けたという噂を聞いた。もし、そうであれば、まさに紙一重で人の運命が分かれていたのだ。放射能があるなどということは、誰も知らない。
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