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【連載】

長崎被爆体験記「静かな地獄」-2

戦後イメージ
 
by 遠武米夫 さん
山田駅
駅に泊まる親子4人。絵は筆者。
「欲しがりません。勝つまでは」という言葉も流行した。ラジオや映画ニュースでは東条英機元帥が「あらゆる困難も乗り越えて」と繰り返した。ある日の映画見物で、日本の特攻機十数機が蝿のようにアメリカのB29の周りを旋回し、ついに撃墜する場面があった。日本にも大型爆撃機B29が来襲しはじめていた。その時、菊江は意外な感想をもらした。

「あんな大きな飛行機をつくるアメリカには勝てない」という。さらに「負けてもいいから、早く戦争は終わって欲しい」と、まだ九歳にもならない私に語りかけた。「国民を守るから軍隊はいばっていられる。その国民を守りきれないで国民総動員、国民一人一人が竹槍で戦え。最後の一人まで戦えというのは、おかしかばい。日本は負けるよ」と恐ろしいことをいった。

菊江は理論家ではない。ごく、ふつうの、主婦にすぎないし、他人に、こんな話はしない。よほど深く考えていたに違いない。母親は少し頭がおかしいのではないか。と少年の私は思った。

その母も隆子が生まれると、がらりと変わった。昭和十九年になると、写真屋を捜して、隆子の誕生日祝いの写真を撮った。自分も盛装したのに、隆子を倒れないように腰掛の後ろから支え、後ろに隠れた。写真を撮る時だけ、晴れ着を着ることができた。この時代、ぜいたくなことである。

映画や写真は、私達家族の唯一の楽しみであった。 隆子は一歳半くらいで、よく動いたし、カタコトの話も判るようになった。菊江が隆子を背負って外へ出ていた時だ。私は一人で留守番していた。腹が空いていた。ふと畳の真ん中をみると、黒いウインナのような固まりがコロリと転がっていた。最近は芋の粉を団子にして食べることが多い。考えるより先に、その小さな黒い固まりをつかみ取り、口の中に放り込んだ。ところが、なんともいえないイヤな味がした。ウンコである。畳の上にウンコをするのは隆子しかいない。それにしても、色合いは芋の粉団子にそっくりだった。あわてて外へ出て吐き出し、水でうがいしたが、こんな話も両親にいえることではなかった。

わが家には「先祖は島津久光公に仕えた家老職だった」というのが自慢の一つであった。父の正吾は鹿児島出身である。家老であったかどうかはわからないが、薩摩藩の上級武士であったことは事実のようである。

父の父、つまり、おじいさんは警察官僚であったことが自慢で、私には昼間から酒を飲んで鬼のような顔をした老人の姿しか記憶にない。明治時代から鹿児島から東京の警視庁に勤める者が多いという話は、この頃からあった。
 

  
私は綿布団に包まれて母に抱かれていた記憶がある。そのころ、おじいさんと後妻、父、母、父の弟三人、妹一人、私と十人家族で、正吾一人が全員の面倒を見ていた。正吾の弟や妹は美男美女で、とくに弟は「日活の俳優になりたい」といって兄の正吾に「二階から蹴り落とされた」話は、いつまでも家族や親戚の語り草になった。弟二人は、東京の服部時計店に勤め、戦後、長崎・大波止前と佐世保に遠武時計店を出す。妹は丸山の芸者になる。女優のような美人で同居していた末の弟は、その顔を見事に描いた。のち絵と習字の先生になっている。
                         
 隆子が生まれた時は、もう叔父夫婦も他界、兄弟や妹も家を出ていたので、やっと親子四人だけになっていたから、母の菊江も家庭的にはほっとしていた時であったと思う。ところが昭和十六年から戦争である。町内から出征する姿を見送る風景が多くなった。徴兵検査があったものの、父の正吾は三十代後半。体力不足で徴兵されなかった。若者はすべて徴兵された。十五歳になると兵隊になることができると聞いて、私も早く大人になりたいと思った。国は食糧難なのに「産めよ増やせよ」と唱えている。出征するとわかってから結婚する例がめずらしくなかった。子供は産まれたのに、父親の戦死を告げられる家庭もある。

正吾は造船所を辞めたあとも浦上の兵器工場で求人があったものの、菊江の反対で仕事らしいことはしていなかった。そのころから父、正吾は経を詠み、宗教の勉強をするようになった。もう仏に頼るしかないという姿が私の目に焼きついている。寺のお坊さんも少なくなり、空き寺の仮住職に乞われることもあった。戦死者の弔いが多くなっていたのである。住職も徴兵されていた。
(つづく)




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