
遠武隆子。満二歳の記念写真。昭和19年10月8日撮影。「昭和20年8月27日、小雨降る朝死す」とアルバムに記録している。 |
医者もいない。菊江や私は、たまりかねて一日に何度も便所へ行く。いくらきばっても便は出ない。出るのは赤い血ばかりであった。
「赤痢ばい」と正吾がいう。正吾だけが何でもないのは、明らかに山田村の古井戸が原因だとわかった。隆子も、おかゆを食べさせようとするが、一口食べるだけで、あとは拒絶した。小さな体をのけぞらせて、泣く力もなくなってきた。大小の便も出なくなる。それでも、菊江はおかゆを絶えず口に入れようとしていた。親子三人は外へ出て石段を下り、医院や病院の多い古川町をさまよった。医者を捜しまわった。が、医院はどこも閉まっている。人に聞いても医者の存在を知る人はいなかった。
「困ったね。うちや健好は抵抗力があるばってん、隆子は、このままやったら、やせるばかりで死んでしまうばい。あんた何とか医者を見つけられんね!」と菊江が訴える。いわれる正吾もつらい。夜になって、自宅つきの医院の戸を叩くが、応答はない。死骸は処理するが、医療の救済は皆無だった。
「せめて乳でも出ればよかとばってん」といいながら、菊江は隆子に乳の出ない乳首をふくませ、合い間を見て冷たいおかゆを口移しで飲ませていた。菊江は次第に泣きながら、隆子を抱き続けた。
「情けなか、こんなに痩せて。隆子。元気を出して、おかゆを飲まんね。ほら!飲め!隆子」 その姿は私がはじめて見る、憔悴した母の姿であった。自分達も腹痛や赤痢特有の症状で苦しんでいた。毎日、便所に入ってはドロリとした血便を、力をこめて少量ずつ排出した。その行為は全身のエネルギーを必要とした。とにかく赤痢便を出して、芋や麦飯を飲み込んだ。
苦痛でも胃に新らしいものを押し込む。赤痢を追い出すつもりであった。とにかく食べなければ抵抗力がつかない。 三人が苦しむ間、正吾は「げんのしょうこが効くかも知れない」といいながら、薬草らしいものを煎じていた。それはまずくて、とても飲めるものではない。が、少しだけ飲んだ。余計ひどくなった。私も死ぬかなと思う。
めずらしく小雨が降って、涼しくなった朝のことだ。菊江が泣きながら叫んだ。「隆子が死んだよ。隆子が死んだよ。息がなかとよ。隆子、隆子、ほら、動かんね。ねえ。どうしたら、よかと」
菊江が、泣きながら隆子をゆすっていた。正吾と私は、その様子を呆然と見ていた。どうすることもできない。隆子は前夜から、暴れていた。その隆子がピクリとも動かない。「山田村に行かなければ、よかった」「戦争なんかするからばい。国は責任とらんとね。隆子もピカドンの犠牲者ばい」と菊江は嘆いた。あとは、うなるような声で「う〜」と嗚咽を続けた。 |