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【連載】

長崎被爆体験記「静かな地獄」-1

 
戦後イメージ
 
by 遠武米夫 さん
山田駅
山田駅は戦後、市町村合併で駅や村の名も消えた。絵は筆者。
ギラリと光る太陽が朱色に染まり、墨絵のような山並みのたなびく西へ沈みつつあった。蝉の声も次第に静かになった。広い田園の真ん中には単線の島原鉄道がまっすぐ伸びていた。諫早から島原へ、一日、二、三本の汽車が通っている。線路の左右にまばらな農家がある。

その中に、木造の小さな駅があった。山田駅という。付近が山田村と呼ばれていた。夕暮れの駅に電灯はつかない。もう、汽車の発着はない。それでも待合室には親子四人が横になれる長椅子がある。ここに泊まるしかない。駅員も黙認している。改札口も、駅の出入り口も仕切りや開閉する戸もないから吹きさらしである。

幸い夏だから寒くはないが、蒸し暑い風が、ゆるりと入り込んでくる。汗まみれで体は臭くなっている。もう十日以上、銭湯にも入っていないから四人とも乞食のような匂いが漂っている。それでもリュックサックや風呂敷包みには宝物が詰め込まれていた。

宝物は玄米、芋、わずかな野菜である。玄米は統制品だから、ヤミ米ということになるが、最近は少し監視の目が緩んでいる。それでも見つかれば没収される。没収した米はどこへいくのか。と思う。
 
暗い駅内で私たち四人は、ぐったりと休んだ。このまま、明朝まで眠れればいい。父の名は遠武正吾、三十九歳。母の名は菊江、二十六歳。私は健好、九歳。妹は隆子、二歳十か月であった。

宝物は現金買いではない。菊江の着物と物々交換されたものであった。
菊江は長崎でも指折りの呉服屋「中仙道」の養女で養子と結婚することになっていたが勘当されていた。

着物は養母が、こっそり届けてくれたものである。勘当された理由は父、正吾との、許されざる結婚であった。正吾は大正時代から昭和初期まで、長崎の映画館で活躍する弁士であった。

弁士といえば無声映画時代の花形である。俳優の次に人気がある。菊江は、その追っかけ娘の一人であった。しかしスクリーンから音声が出るトーキー時代になり、ラジオの普及がすすむと徳川夢声などをのぞけば東京以外ではすべての弁士達が失業した。
正吾は三菱造船所に勤めた。その造船所も昭和十六年、第二次世界戦争がはじまると、高いタンカーの上にあがって作業するなど、軍需産業の増加で危険な仕事が増え、昭和十九年になると空襲が繰り返されるようになった。噂では人間魚雷もつくられているという。「造船所は狙われている。やめてくれんね」と菊江にいわれ退職した。

「いつ死ぬか、わからん。できるだけ家族一緒にいよう。こんな戦争は必ず終わる時がくる。いつまでも続くわけがない」と夫婦で話していた。なぜ戦争が起こったか。国民は知らない。事実を知ることはタブーだった。
 
私は小学校(当時は国民学校)に入学したものの、近視で黒板に先生が書く白墨(チョウク)の文字が読めない。先生に相談することもできず「学校に行かんでも、よかね」と菊江にいうと「よかよか。行かんでもよか」と、あっさり答えてくれた。喜んで休む。だから戦時中の小学生時代の友達は一人もいない。
昭和十八年に生まれた隆子は、小柄だが筋肉質で無邪気に元気である。ただ、父母の愛情が、私より妹にだけ注がれるようになったので、兄の私は少々ひねくれるようになった。

時々夜中に子守りをさせられると、隆子がギャーギャー泣く時がある。そんな時は、隆子の尻をつねったりして余計、泣き声を高くしたことがある。これは両親に秘密である。

隆子が生まれるまでは、よく母の菊江に連れられて映画をみた。昭和初期の十年間は、外国の映画も盛んに上映されている。日本映画では「愛染かつら」が一世を風靡した。山口淑子が李香蘭という名で満州における日本人兵隊と恋愛する中国人役で出演し、彼女を本当の中国人と思い、満州では日本人は好かれていると思った。もちろん戦争映画は多かった。神風特攻隊の勇姿に憧れた。鬼畜米英という言葉や文字が映画だけでなく、たまに出る学校でも叫ばれた。
(つづく)




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