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| |中高年シニアの健康管理室|投稿| | |||||
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原爆が落ちて1か月ほどすぎた頃。私たち家族は、稲田町から大浦元町へ移転した。稲田町の家は直接被爆したわけではないが、屋根の一部に大きな穴が出来、風雨に耐えられなくなった。大きな穴は近所に焼夷弾が落とされたときの影響であった。大浦元町も長屋である。出島を一望する高台にあった。いまでいうベランダ風の物干し台に出ると、すぐ横に海星中学校が見え、その下に活水女学院があった。
見晴らしは最高だ。朝夕は、無傷で残った大浦天主堂の鐘が響き渡る。平和が来たのだと長崎市民に知らせているようである。いいところに移ったと喜んだのもつかの間、その海星中学校は米軍の宿舎になった。そこから500メートルも離れていない元町のわが家は、身近かに米兵達があふれることに恐怖した。
恐怖したところで、逃げ出すわけにはいかない。「殺されてもよか。早く戦争をやめて欲しか」といっていた母である。隆子も死んだばかり。「どうにでもなれ」という態度であった。父は緊張していた。妻子を守らなければという気概だけはある。
ある日、ふいにMP(ミリタリーポリス=憲兵)が訪れた。MPは米兵の犯罪行為も厳格に取り締まる。この時、日本に警察はないから唯一の警察なのである。その権限は絶対で、MPに殺されても文句はいえない。日本で言えば戦時中の憲兵である。
そのMPが畳の部屋を土足で入ってきた。せまい部屋の中を、天井から床下までチェックした。考えられることは、武器になるようなものはないか。であった。あれば没収する。たとえば刀剣類である。そんなものが、あるはずもないのだが、つい一か月前まで、殺しあっていた敵国である。米兵が警戒するのは当然であったろう。
しかし憔悴して戦意をなくした私たちには、地獄から来た大男であった。手には警棒を持っていたが、9歳の私の目には、腰の大きな拳銃が恐ろしかった。MPは2人一組で軒並み戸別点検する。一人が表に立ち、一人が部屋の中を点検した。市内の多くの住民はこうした点検を受けたようだ。
私たちは親子三人、部屋の片隅に固まった。MPの姿を見ながら、日本人より大きい体格に圧倒されていた。わずかな動きにも油断をしなかった。包丁も取り上げられるのだろうか。釜のような金属類も没収されるのだろうか。大事にしている着物も持ち去られるのではないかなど、心配したらきりがない。戦時中の日本の憲兵なら、やりそうなことであった。
幸い何も没収されなかった。何もなかったといったほうがよい。約10分ほど、じっと立ったまま部屋を見回したあと、MPは立ち去った。「おたくは、大丈夫?」と近所の人達が表に出て、恐怖の点検を語り合った。どこも没収されたものはなかった。安心したのだろう。主婦たちは「石鹸の匂いがしたね」などと小さく笑った。米兵の暮らしの豊かさを知ったのかも知れない。日本人の家庭には、石鹸一つなかったのである。本当の「生きる」戦いは、これからであった。
写真:自宅へ来たMP
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