「悲しみ」を考える
投稿者:自己中心
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最愛の人と死別したとする。悲しい。涙に暮れる毎日だろう。だけど、その悲しみは愛する人と別れて、自分が寂しいからだ。本音を突き詰めれば、その人の人生が終わったことが悲しいのではない。あくまで「自分中心」の感情だ。死んだのは自分でない、という醒めた己の気持ちに驚くことがある。
新潟県中越沖地震で現地の状況が連日連夜のように報道される。家を失い避難所生活を強いられている方々は大変だ。心から同情する。テレビ各局入り乱れて報道するが、果たして必要なのだろうか?テレビ局曰く、「現地の状況を報道することにより、何が必要とされているか国民全体が知る必要がある」
私は思う「映像は必要ない、言葉だけで十分だ」
ヘリコプターによる空からの映像、地を縫うようなテレビカメラの映像。執拗に被災地を映し出す。それを茶の間で観ている我々に、大変だと言いつつ、心のどこかに「こっち側にいて良かった」という身勝手な安堵感の存在を否定できない。
被災地の方々にとって、必要なのは「報道されること」でない。食糧、トイレ、寝る場所などなど最低限の生活ができる物資なのだ。「報道」の大義名分を振りかざし、土足で人の家に乗り込んでいるような気がしてならない。報道されない権利もあるはずだ。
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