九、最上川
最上義光は水害を防ぎ、干ばつの多い田畑に水を引くために米沢を水源とする酒田までの凸凹川を改修した。この大事業で荒れた田畑を緑と青色に染め、とくに庄内は豊作に沸いた。いらい日本七番目の長さを誇る(全長二二九キロメートル)川の名は、最上川と呼ばれる。改修される前も、この川は船が往来していた。天正八年、白鷹町から大江町の区間は難所、五百川渓谷と呼ばれ難破船が続出していた。
佐野地区にはキリシタン屋敷ができるなど、酒田港を拠点としたポルトガル人や明朝人による「第二の長崎」がつくられようとしていたことがある。南蛮煙草がこの地で栽培されたのも、その頃からであった。
最上川の改修が終わって豊かに一変したのは農作物だけではない。最上義光は酒田港を堺、長崎に次ぐ交易港にしようと励んだ。その時、酒田に大規模な最上家の御用蔵を設けたことでも義光の意欲がわかる。蔵元を務めたのが京都の呉服商・島屋五郎右衛門である。これが島谷屋の本家だという説もある。
ところが最上義光は慶長十九年に怪死する。嫡子・義俊は十二歳で病死。後継者争いが起こる。時の二代将軍・徳川秀忠の命で最上家は改易となった。最上一族も追放された。名を変えて出羽の百姓となる一族もいた。
「その子孫が高宮家へ養子入りしたのです。その高宮家も没落した。父は最上の姓をおこそうと努力したが失敗した」と徳内は苦笑する。間兵衛は米沢の道場へ通い、上杉家へ仕官する努力もした。それも挫折した。間兵衛は、最上川の船着場で知り合った「とき」という娘と親しくなり、所帯を持った。ときはアイヌの血を引いていた。
徳内は、宝暦五年(一七五五年)出羽国(山形県)村山郡楯岡村で「百姓間兵衛の倅」として生まれた。名は元吉である。三歳から文字に興味を持ち父を喜ばせた。「この子に百姓はさせない」と間兵衛は決心する。元吉は自ら畑仕事を手伝おうとしたが、十五歳の時、谷地村の煙草屋・津軽屋に雇われ、煙草売りの行商に出かけることになった。「あとは運だ」と間兵衛は行く末にかすかな望みをかけた。
元吉は行商先で多くの話を聞くことができた。「もう士農工商の時代ではない。商工士農の時代だな」「いや、それは古い。これからは学商工士農だ」「そうか。天文地理学者が新しい時代をつくるか」「そうだ。江戸の有名塾に行けば幕府の新規お召しかかえの機会があるというぞ」「勉強するのも銭がかかりそうだな」「何でも銭(ぜに)の世の中か」「いま芭蕉の俳句ばやりだな。江戸の金持ちはみんな俳句をやるそうだ」「奥の細道を旅することが、有徳人の証しともいわれている」「古池や、ああ古池や、古池や、か」
元吉はいつも紙と筆と墨を持ち歩いた。客がくれた本は何でも読破した。元吉は木版刷りの文字をみれば、その文字の上に水をふくませた筆をあてて覚えた。寺小屋に通う同年の少年がうらやましかった。が元吉は神社の陰や石段の上で、一人で一心に筆を執ったのである。
続く
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