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四十六 家治と意次
将軍・家治は、意次になぐさめの言葉をかけた。意次、大丈夫か。意知の葬儀はいつだ」「お心使いありがたく受け賜ります。意知は密葬と致しまする」「よいではないか。周りを気にするな」「上様。家基様の時は、三年間ご他界を伏せたのでございます」「お互いに実の息子を殺されたわけだ。佐野の黒幕は定信ではないのか」「密偵をめぐらしておりますが確証がありませぬ。それよりも上様の身辺に警護を増やします。お目ざわりかと思いますが、お許しくださいませ」「近頃は大奥の女達まで武術の稽古をしている。少々うるさいがの」「上様は、この意次が差し向ける町医・若林啓順、日向陶庵の投薬のみお使いくださいますよう、お願い申し上げます。長崎帰りの名医でございます」
家治は声には出さず笑った。将軍暗殺など、ありえないことである。意次の父・意行は紀州生まれ。第八代将軍・吉宗に足軽として従って来た。意行は享保四年(一七一九年)旗本六百石に出世する。その時、長男として意次が生まれた。十六歳の時、吉宗の長男、家重の小姓に抜擢された。その家重が周りの反対を押し切って第九代将軍になる。家重は小便公方と陰口される阿呆(脳性麻痺)だが意次は大小便の後始末もしてその風評を押さえ込んだ。 その家重は宝暦十一年(一七六一年)六月他界。家重の長男、家治が第十代将軍に就く。家治は意次の献身的な父への忠勤ぶりを誰よりも知っていた。家重の遺言もあり意次は三十九歳で御側御用取次ぎから一万石の大名となり、側用人や侍従を兼務したまま老中に就任して絶大な権力をにぎることになった。いまや遠州・相良藩五万六千石の城主である。
家治は史記、漢書、三国史を読破するなど碁や将棋の著書も執筆するが、政事は苦手であった。「政務は意次に勝る者なし」と繰り返している。「父はあの通りの阿呆。将軍職がつとまったのは意次のおかげだ」と家治は意次にいう。大奥に通うことが多いためか色白である。家治は美男子だった。「違います。家重公が阿呆なら上様のような英明なご嫡子は生まれませぬ」と意次は応えた。次いで「そのようなこと、おおせになられませぬよう…。涙が出てまいります」と本当に涙をにじませた。家治は「すまぬ」と小さく詫びた。
意次は、財政難にあえぐ幕府の改革に乗り出していた。農工主義でなく貿易や財源の開発を断行した。たとえばオランダから輸入した銀で貨幣の改鋳を断行した。安い銀を日本の金と交換して利益をあげることもあった。新たに業種別団体の再編成をまとめあげた。
意次は、自分の人脈も築いた。水野出羽守忠友、稲葉越中守正明、米倉丹後守昌晴、大田備中守資愛らと姻戚関係を結んだ。また百俵五人扶持の組頭を勘定奉行に抜擢するなど家柄でなく能力主義を採用した。下級武士でも出世のできる実例が続出し、家柄にあぐらをかいてきた武家社会に動揺が走っていた。
続く
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