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四十五 世直し大明神

「何があったのか」襲われた田沼意知自身、わけがわからなかった。この時、三十五歳である。意知は、田沼意次の長男として生まれた。父・意次の出世によって十九歳で官位・山城守に任じられ、三十一歳で将軍への取次役、奏者番となる。昨年、若年寄になり次期老中への階段を登りはじめた。正室は老中・松平康福の娘である。子に長男の意明、次男の意壱、四男の意信がいる。三男は病死していた。
 
若年寄は旗本を総括する。しかし老中へ提言することもある。それは若年寄から老中へ昇進する者の腕試しでもあった。意知は、貿易船の建造と船大工をオランダから招く策をすすめていた。すでに長崎奉行を通して出島のカピタン(館長)に申し入れをしている。実現すれば、老中入りが早まるはずであった。ところが。

事件から八日後の四月三日、田沼意知は、出血多量のまま他界した。佐野政言は、その翌日、切腹を命ぜられた。本当の理由は闇のままだ。「誰に頼まれたか白状せい!」と拷問にかけられた挙句である。誰もが佐野のうしろに黒幕がいると見ていた。家名は断絶。領地召し上げという処分を覚悟しての暴挙だ。江戸城内における刃傷沙汰はよほどの覚悟があるに違いない。

しかし政言は一貫して「田沼家は佐野家の系図を返さない。佐野大明神を田沼大明神に変えて乗っ取った」というばかりで、らちがあかない。さまざまな憶測がふくらむ中「追及はこれまで」という意次の意向で、政言の切腹が許された。政言の背中を押した者は不明のまま深追いをやめたのである。

この事件は「田沼意知殿は病死」とした上で「佐野政言は城中で狂乱した。家名断絶の上、切腹を申し付けた。以後この件については他言無用である」という大目付による告知が行なわれた。にもかかわらず。
 
半月もしないうちに佐野狂乱の噂は江戸中に広がる。暗殺されたのが田沼意次の長男であり若年寄であるということで喝采する庶民が続出した。巷に落首、落書が氾濫する。流行作家の山東京伝が「時代世話二挺鼓」と題した黄表紙で、この暗殺事件を風刺した。庶民にわかるはずのない状況と、田沼の悪政ぶりが描かれている。この事件をあてこんだ瓦版も飛ぶように売れた。

さらに半月すぎた頃、米の値段が一時的に下落した。これを結びつけて「佐野のおかげだ。佐野大明神様だ!」と、はやす者が続出する。江戸町民にはお調子者が多い。佐野が葬られた浅草の徳本寺に参詣する長蛇の列ができた。米価が下落したのは、大阪の商人が、ひそかに買占めた米十九万六千四百四十石を幕府が摘発して、一時的に米の量があまったから、であった。「定信だけの知恵ではない」と田沼意次はうなった。


続く







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