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四十四 佐野の狂乱

「何事だ。場所を心得よ」と意知が叫んだ。もっともらしい理由をつけて接近してきたに違いない。最近は、そういう人物が多くなっている。ところが。佐野政言が、懐に隠していた小太刀を抜いて、意知に斬りかかったのだ。その様子は、米倉、太田、井伊の三若年寄が、すぐ近くで見ている。止めることもできず呆然としていた。ありえない光景であった。意知は「血迷ったか」と叫ぶのが精一杯であった。
 
刃をかわして意知は体をよじった。そのはずみで転倒した。帯刀はしていない。しかし万一の場合、心構えを問われるのが武士の世界である。太刀はなくとも敵をかわすすべを知っていなければならない。ところが不覚にも意知は、うろたえて逃げるばかり。狂鬼のように佐野が二の太刀、三の太刀を浴びせ続けた。意知は桔梗の間に倒れこみ、赤い血が二十畳一面に広がった。

「覚えがあろう!」と叫ぶ佐野の声だけが響く。ようやく「医者を呼べ!」「佐野を取り押さえろ!」と騒ぐ声が高まった。やがて二十余名の家臣が抜刀して取り囲み、小太刀をぶらさげたまま立ちつくす佐野政言は、駆けつけてきた大目付の松平対馬守忠郷に取り押さえられた。即、八人に囲まれ屋敷牢へ連行されつつ「ははは」と政言が高笑いしている。「静まれ!」と連行する目付役が怒鳴っている。
 
奥医二人が意知の体を調べる。噴き出す血は多く止まらない。手当ての仕様がなく二人はぶるぶると震えた。かろうじて、意知の傷が股を刺されていること、刺し傷は三寸五分で骨に達していることが記録された。意知は意識不明のまま動かない。顔面は蒼白だ。息も途切れがちである。
 
居合わせた者はすべて青ざめた。老中、田沼意次に「まわりは何をしていた」と責められるかも知れない。意知は目付けの柳生主繕正ら五人によって城内から大名駕籠に乗せられ、相良藩上屋敷へ運ばれた。そこへ大名駕籠がいくつも続く。「一体、何があったのだ」と、老中、田沼意次が駆けつけた。

そのうしろに、田沼によって出世した大老の井伊直幸、老中の松平康福、水野忠友、牧野貞永、中立の立場で入閣いている鳥居忠意が居並ぶ。警護も含めて、襖を開いた隣の部屋には三十人を超える者が様子をうかがった。

「止める間もなく、あっという間の出来事でござった」付き添った米倉昌晴が意次に絶妙な応えをした。意次は意知の枕元に座り込んだ。「田沼様および、その場に居合わせた方々のみ、この場におとどまり願いたい!」と大目付の松平忠郷が叫ぶ。

続く







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