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三十四 松平定信

松平家はもと久松家。徳川家康の生母、お大の方が再嫁した家である。御三卿の中から養子を出して不足のある家柄ではない。しかし田安徳川家の二代当主・治察(はるさと)は病弱で跡継ぎもいない。

「治察にもしものことがあれば賢丸が田安徳川家の当主とならなければならぬ。奥州行きは固辞したい」と断言したのは、故・宗武の正室、宝蓮院(近衛道子)だった。賢丸が松平家の養子になれば将軍家の道も絶たれる。

それでも「松平家は、賢丸殿を婿に賜りたいと上様に申し出て、お許しを得ている。松平家は家康公の実母お大の方様ゆかりの家柄。上様のご意向にさからうわけにもいかない」と、しぶしぶ養子入りを承諾した。

その後の異変は、悪夢を見るようであった。賢丸は松平家と養子縁組して定信と名乗る。その、わずか十日後。治察が瘧(おこり)の重病になる。悪感と発熱がひどく体の震えがとまらない。さっそく田安徳川家では「賢丸を実家に復帰させたい」と、将軍のお側衆、稲葉正明に将軍直々の撤回命令を願い出た。この時、稲葉正明は「ごもっとも。さっそく上様に言上いたしましょう」と好意的であった。

ところが稲葉正明は二日後食あたりで死んだ。毒殺といわれたたが「将軍の身辺で怪しき噂は禁物」と取調べもない。将軍への願い出も立ち消えになった。あわてた宝蓮院は、正式に幕閣へ願い出た。が田沼ら老中は「一度出た家には戻れませぬ」と頑強な態度を崩さない。出たといっても賢丸はまだ江戸城田安門の屋敷にいる。さらに大奥の老女、高岳に「定信の田安家相続を上様にお願いしてもらいたい」と依頼するが、その声は将軍家治に達しなかった。

宝蓮院は見えない壁が、思いのほか大きいことに気付きはじめた。このやりとりが繰り返されるうち、迎える側の松平家が怒りだした。 松平家では、松平定邦が中風を患っていた。跡継ぎを急ぐ事情もある。
「宝蓮院殿は白河藩を何と心得る。定信はすでにわが婿。早く白河へ来られよ」という公言するようになった。宝蓮院と賢丸は進退きわまった。
再び「承諾した」と返事をした。その十日後。安永三年九月八日、治察が逝去した。田安徳川家は当主が不在となった。

将軍家治が自分を排除しているとは思いたくない。次期将軍といわれる家治の嫡子・家基は三歳上だが、一緒に鷹狩りする親友であった。宝蓮院や家臣をなだめたのは、ほかならぬ定信である。まだ将軍へ直談判するほどの器量はない。自分もいつ病いに倒れるかも知れない。

「不利とわかれば引き下がるのみ。負けるとわかりつつ戦う兵法はない」と説得する姿に、落涙する家臣は多かった。「おのれ田沼め。ゆくゆく賢丸では御し難いと見て図ったか」と宝蓮院は泣き叫ぶ。宝蓮院と定信は、密かに老中田沼意次に復讐することを誓い合った。その背後に将軍家治、一橋治済がいたとしても「いつの日か思い知らせよう」と手をにぎりあった。

安永四年(一七七九年)十一月。定信は江戸城田安門を出て、晩秋の空の下、日光街道、奥州街道をたどる。

続く







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