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三十三 幻の将軍
その年の暮れ。江戸は一瞬の祝い気分に沸き、落胆していた。正式に、将軍の後継ぎが決ったという噂が流れたのである。祝事はない。が各大名は、ある変事に驚きながらも競って将軍や一橋徳川家へ祝い品を届けた。それを知った江戸町民は「将軍様が変われば暮らしはよくなるぞ」と期待した。
ところが、それがとんだ早とちりだった。「お世継ぎは、まだ十歳だと」わかって、あきらめに似た溜息をもらす町民が多かった。田沼意次が一部の地主や商人の願いを聞き入れて大騒動に発展した上州絹一揆が全国に影響を与えていた。全国各地の飢饉がじわりと江戸の町民にも暗い影を落としている。米、味噌、塩、豆腐、紙、綿、大豆、麦、乾物、野菜がじりじり値上がりしていた。米の小売りは一升銭百文が百五十文になるという日があった。米だけでなく灯油も同様の値上がりをして油問屋が襲われた。
第十代将軍・徳川家治は不人気ではない。むしろ祖父・吉宗ゆずりの資質をもった名君といわれた。よく鷹狩りへ出かけ書画や将棋などを好んだ。しかし、わずらわしい政務は田沼意次にまかせた。田沼意次の重用は父・家重(九代将軍)の遺言である。だから実子が怪死して動揺した時も意次の進言に従った。田沼意次の進言で家治は五歳の豊千代(一橋治済の嫡子)を養子に迎えた。その豊千代が十歳になった。お世継ぎ様と呼ばれたが十一代将軍にすると決めていたわけではない。四年がすぎて家治はようやく決断した。豊千代は家斉(いえなり)と呼ばれることになる。同時に将軍の実子・家基が死んだことを各大名や町民は知った。また、ある次期将軍の候補が消えた日でもあった。各大名は、松平定信に注目した。「幻の将軍様は今後どうするか」という野次馬が多くなったのである。
松平定信(まつだいら・さだのぶ)は、宝暦八年(一七五八年)二月二十七日、御三卿の一つ田安徳川宗武(たやす・とくがわ・むねたけ)の七男として生まれた。幼名は賢丸(まさまる)。宗武は八代将軍吉宗の次男だから、賢丸は吉宗のれっきとした孫になる。しかも幼少から非凡な才能を持ち、十二歳で「自教鑑」を書き上げ、十七歳までに七千首の和歌を詠んだ。兄達が相次いで他界するので、自分も生きているうちに何かを残しておこうと励んだのである。
性格は激しく短気だが、教育掛の大塚孝康らが懸命に苦言を重ね、成長するにしたがって寛大なところをみせるようになった。しかも賢丸の幼少期を寵愛したのは、他ならぬ将軍家治であった。ところが。
安永二年十月、御三卿の一つ、一橋徳川家に長男が誕生する。治済(はるさだ)の長男、豊千代だ。その時、治済は将軍家治の信任厚い田沼意次に急接近して意次の弟、田沼意誠を「一橋の家老に迎えたい」と告げた。後世「一橋の陰謀」といわれる江戸城内の暗闘は、この時はじまったといってよい。
安永三年(一七七四年)。賢丸が十七歳の時。意外な沙汰が下る。幕閣は田安徳川家に対して「上意。定信殿は奥州白河藩主、松平越中守定邦様のご養子に入られますよう」命じたのである。
続く
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