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三十二 住み込み夫婦
 
新しい後輩は二十六歳の狭間光平という妻子持ちである。その妻子ともに住み込みこむようになった。小柄の妻女おつゆは不思議な色気があった。涼やかな目のせいだろう。幼子をあやしながらよく働いた。困るのは元百姓の光平が臼挽きも出来ず分量や調合をなかなか覚えようとしないことであった。

江戸城から帰ってみると何もせず座って待っている。なのに薬袋は整然と並んでいた。妻女のおつゆが、きちんと与えられた役割を果たしていたのである。そのおつゆが元吉に親しく教えを請う姿を見て焼餅だけは一人前に焼く光平であった。ともかく肝心の仕事は元吉だけ負担が多くなった。悲鳴をあげて山田宗俊へ誰か少しでもわかる者を入れて欲しいと頼み込んだ。

「わかった。もう一人住み込みを探そう。そうだ。また斉藤宇八郎殿に頼もう」という。山田屋敷に山田宗俊の妻はいない。子どもを産むために実家へ帰っていた。台所は光平の妻おつゆがまかなっていた。これで新たに誰か住み込めば、光平の妬き餅も少なくなるに違いなかった。大体、他人の女房に手を出すなど器用なことのできる元吉ではなかった。

なのに、おつゆのほうが積極的に元吉へ思わせぶりなしぐさをみせた。子持ちの女とはいえ、おつゆはまだ二十歳をすぎたばかり。不器用な夫より器用な働き者の元吉が頼もしく見えたに違いない。その気になれば夫の目を盗んで、夜中に元吉の寝床へもぐりこんでくることなど平気だといわんばかりである。元吉は迷惑した。が、夜中になるとおつゆが忍び込んできそうな気がして眠れない自分にもあきれた。しかも、おつゆと交わる夢を見てあわてた。男は好きでもない女の夢も見るのだ。
 
初秋の夕暮れ。斉藤宇八郎が今度は四十過ぎの男を連れてきた。男は坂下重三郎という朴訥な人柄である。妻は昨年他界した。水戸藩士である。上役と騒動を起こして江戸詰めになった。領地所払い同然であった。紹介されたあと元吉は宇八郎に聞いた。新入りのことより知りたいことがある。

「山田宗俊先生は、このまま奥医として生涯をすごされるのでしょうか」「いや、もともと山本北山の高弟であるから、山田先生は儒教を将軍へ進講する御儒者が狙い。しかし三代将軍・家光様いらい林家の御用学者が腰を据えている。だが必ず多くの学者の意見を聞く折が到来するとの見込みをつけて、機会を待っている。ゆえに医学は多少おろそかとなっているが、奥医は最もよい将軍様への近道でもある。というわけだ」

「なるほど。そうですか」「何か心に迷いがあるようだな。山田先生は誰かに狙われていると聞く。先生には私から話をしておくから少し剣術をならってはどうか。用心棒代わりになれば喜ぶぞ。気分が晴れよう。この坂下重三郎は神道無念流の免許皆伝だぞ」 斉藤宇八郎は、元吉が医師の道に迷い始めたことを察知していた。

続く







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