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三十 蘭学医
元吉は工藤家を訪れた。その日、平助は不在である。綾子がいた。「元吉さんのことは吉文字屋から逐一聞いております。算額を見込まれたとか。斉藤宇八郎という方は、ずいぶん面白い方ですね。こちらにも見えましたよ。あなたが弟子入りする山田宗俊様は水戸藩ゆかりの漢方医。蘭学医見習いのあなたがいれば、少しは新しい医術を取り入れたといえるのでしょう」
「もし、そうであれば困ります。私は蘭医学を学んだことがありません」「では三日間ここにいなさい。父も諒解するでしょう。あなたに蘭学医のいろはをお教えします」「なぜ、それほどまでに、ご親切なのですか」「この家を出たあとも元吉さんのことは、ずっと見張っていたのです。五郎右衛門さんからも二日に一度知らせがありました。あなたが私のことをよく口にすると聞きましたよ。今度こそ、あなたが隠密でないことがはっきりしました。いつまでも疑いの目でいたことを恥じるばかりです。その、つぐないをします」
「はあ」元吉は再び唖然とした。だが綾子との再会に心が浮いた。その日から三日間、勉学に励んだ。むろん初歩的なことばかりである。オランダ医学と漢方医学との違いも教えられた。「医術は蘭学の一部にすぎません。地球の反対側にあるオランダ王国は三百以上の王国が接するヨーロッパの一部であるとも聞いております。戦乱が起こるたびに医学が進歩するそうです」と綾子が二日間、膝を寄せて教えてくれた。
綾子の唇から漏れる吐息が頬にかかるときがある。元吉は妄想をはらいのけながら吉文字屋で覚えた小文字で懸命に筆記した。綾子は、その筆先の速さに驚きの目をかくさない。元吉の才能は工藤親子も認めている。
三日目は実際の診察に立ち会った。平助が「きょうは医師のつもりで見ろ」と笑った。平助も自分達が疑い深いことを恥じているようである。
「背骨が痛い」「乳が痛い」という患者がいた。平助は男女の別なく患者の上半身を裸にした。「胸はかくしてよい」という。こばむ女患者はいない。「夫さえ知らぬところを医者が知り」「痛いことないと外科殿、針を出し」などの川柳が流行している。平助は内科、外科、産婦人科も兼ねていた。工藤平助は楽しむように語った。
「江戸の医術は望診、問診、聞診、切診の四診がある。見方は陰陽、虚実、寒熱、表裏、内外、五蔵六腑をしめす五行説あり。これに蘭学は万物学を持ち込んだ。吉宗公いらいオランダ医学が解禁され、体を切り開く術の訓練も盛んになった。いま和洋折衷(わよう・せっちゅう)の医術が本流になりつつある」「……」話を聞いていた三十すぎた女患者が失神した。
続く
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