三、野辺地
銅は、長崎からオランダ東インド会社や清国の商人へ売られる。その量は日本一多く、野辺地には長崎会所の出先詰め所まで設けられていた。さらに長崎交易の代表的な商品となる大豆、日干しの魚などの「俵物」の出荷量も日本一であった。
野辺地は有力商人の出店も多い。大阪の鴻池をはじめとして、蝦夷地で大商いをした飛騨屋久兵衛、能登の安部屋伝兵衛。後年、悲劇的に名をあげる銭屋五兵衛、高田屋嘉兵衛などがある。地元では、南部銅扱いの支配を受け持つ廻船問屋、島谷屋清吉がいた。
野辺地に落ち着いて三日後。徳内は古着屋で着物を買い、帯には肌身離さず持ち歩いた小太刀を差した。この小太刀は本多利明から与えられたものだ。崖から飛び降りた時も裸同然の腰にしっかりくくりつけていた。徳内は、島谷屋を訪ねた。門前で、しばらく躊躇していると中から主人らしい男が飛び出してきた。急いでいる様子だが、またとない好機だと声をかける。
「もし、島谷屋の清吉殿ではありませんか」
「あ、はい。清吉でございます」
「出羽・楯岡の俊治でござる。ご多忙の中おそれいるが、一度お話したい」
「申しわけございません。ただいま急な用で出かけなければなりません。五日ほどして、もう一度おたずねくださいまし。失礼いたします」
清吉は、そそくさと立ち去った。仕方がないと思う。が、亡き父の言葉を思い出して、南部藩御用達の大店に、みすぼらしい姿を見せた自分が恥ずかしくなった。清吉の年齢が徳内より若く見えたこともある。俊治とは、徳内と名乗るまでの名前である。親戚なら、子供のころからの名前がよいと思ったが、考えすぎのようであった。
野辺地には、少年時代から何度も訪れたことがある。できれば、この地で落ち着きたい。江戸にもどれば本多利明の厄介になることはできる。しかし「自力で蝦夷地に活路を開きます」と宣言した。「無理をするな」と忠告されたにもかかわらず見栄をはった。「松前藩なら、私の実力を評価する」とうぬぼれたことが失敗だった。失敗どころか殺されそうになったのである。
天下国家はひとまずおいて、まず生きる手段が必要であった。徳内は、翌日から、枇杷野川近くの八幡宮に参拝し、その門前通りで青空塾を開いた。この通りは夏になると他国者の怪しい野師や、大道芸人が集まってにぎわう。徳内も、その仲間入りをしたわけである。ただし売る物がない。知識を売ることにした。「天文、地理、算術、蘭学、何でも答えよう。一問答えるごとに三文いただく」と大声で怒鳴った。
続く
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