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二十九 湯島の茶屋

斉藤宇八郎は、元吉と五郎右衛門を連れて湯島天神近くの茶屋に招いた。茶屋は屋台から屋敷までさまざまな形がある。着いたところは数奇屋造りの大きな料理茶屋であった。黒塀に囲まれている。塀の中は竹薮が二階建ての屋敷を囲んでいた。小さな引き戸から中に入ると玄関までの細い道が長崎風の石畳、玄関に入ると豪華な金屏風が立っている。紺色の着物に黒焦げ茶色の帯を締めた上品な若い女中が両手をついて出迎えた。宇八郎は常連らしい。

灯篭のある庭が見える部屋に通される。しばらくすると女将が挨拶にきて「この部屋の女中です」と、十七か十八の若い娘を酌婦として置いていった。「あの、酒は飲みませんが」と元吉が口を開いた。「ならば、お茶にしよう。ただし、ここの江戸前すしをぜひすすめたい」
 
しばらく、とりとめのない会話が続いたあと本題が出た。「元吉さんは蘭学見習いの時があったというが地図絵づくりの測量術などやめて御医師の弟子にならんか。じつは儒学者として有名な山本北山先生の高弟、山田宗俊(号=図南)先生から素質のある内弟子が欲しいといわれているのだ」と宇八郎がいう。自分だけ酒を飲んで二人には高価な料理を並べた。若い女中が腕をまくって差し出す山海の珍味は二人の男を陶酔させた。元吉は答える。

「いま私の身柄は工藤家から吉文字屋に預けられています。この両家に諒解を得なければなりません」「よし。まかせてくれ。わしが諒解をとる。それがすめばよいのだな」「いや。お待ちください。まだ医師をめざすとは決めておりません」「おい!お前は自分がいくつだと思っているのだ。数えで二十七歳。将来を迷う年ではあるまい。測量も大事な仕事だが、人命を救うにまさる仕事はない」

「それほどまでに、この私を」乱暴な話だが興味は湧く。「そうだ。これからの医術には算額のできる頭が要るのだ。これは俺の信念だ」元吉は五郎右衛門を見た。五郎右衛門はうなずいている。測量家より医師のほうが身分は高い。しかし酒に酔っている男の確約をどこまで信頼できるのか。「あなた様が両家を説得してくださるなら、お受けいたします」「そうか。ならば説得しよう。決まりだな」と宇八郎は勝手に納得した。 まさかと思ったが、この話は酒の肴ではなく本物であった。
 
斉藤宇八郎の行動はすばやい。翌日には両家を訪問している。「元吉、水戸藩士の斉藤宇八郎様が来て、お前を御医師見習いにしたいという。本人次第と答えておいた。将来を思えばそれもよい。ただし綾子様にはよく礼をいうことだ。陰で心配しておられたのだ」と次郎兵衛は元吉をにらみつけた。元吉は、ようやく吉文字屋の役に立ち始めた時であった。

続く







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