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二十八 絵馬
天明二年の春。元吉は五郎右衛門と共に桜満開の神田明神にいた。「見ろよ、元吉さんの絵馬のまわりに、答えを競う札が十を超えるぜ」と五郎右衛門が自分のことのようにはしゃいだ。参拝する道の両脇は桜並木である。その桜の木には参拝客の絵馬札が鈴なりにぶらさがる。よくみると丸形や三角形など図形が書きこまれた絵馬がある。これは算額(和算)の持論を奉納するものと、見物人に問いかけるものがあった。それに答える絵馬札もある。
かつて絵馬の活用では川柳が多かった。それが次第に学問に変り近頃は算額が主流になった。元吉が好んだのは、円と変形の幾何学ともいえるもので見ず知らずの同好の士がよく挑戦した。とくに自在亭という質問者が何枚もある。
「また、問いかけてきた」と元吉が叫んだ。うれしい。「自在亭とは何者でしょうね」五郎右衛門が意味ありげに元吉を見つめた。「学者のようですね」元吉は五郎右衛門が監視役であることを知らない。
元吉は出題を書く絵馬に「徳内」と号した。この時、自在亭なる人物が同じ出羽国出身の鈴木彦助(のちの会田安明)とは夢想もしない。会田安明は生涯で千数百冊の数学書を書く。元吉(のちの最上徳内)は地図づくりの測量術に必要な算額(数学)を極めているだけであったが。
算術が民百姓にまで広がったのは室町時代からである。毛利重能の「割算書」(一六二二年)執筆で「二一天作の五」という割声もその時から生まれている。算盤(そろばん)が渡来した時でもある。これをさらに大衆的にしたのは、毛利重能の弟子、吉田光由(嵯峨・角倉一族。一五九八年〜一六七二年)であった。数学遊びは、その時から評判になっている。「まま子だて」「ねずみ算」「百万騎の行列の長さ」などは大名家の間で話題になった。
「おたずねしたい。そこもとは、この算額を出題した徳内殿であろうか」さきほどから近くにいて、二人の会話に聞き耳を立てている馬顔の男が声をかけてきた。驚いたのは元吉でなく五郎右衛門であった。「さようでございますが」と元吉は低姿勢になる。「私は、この近くの足袋屋でな。学問好きな友がほしいところであった。名は斉藤宇八郎と申す。湯島の近くに茶屋がある。お招きしたいが、いかが」商人といいながら武士口調。腰には小太刀を挿している。年は四十近い。
元吉は五郎右衛門を見た。きょうは二人とも久しぶりに休みをもらっている。「お受けしては」と五郎右衛門がいう。好奇心があらわである。「二人ともにお招きいただければ、まいります。私は高宮元吉と申します」「これは、ありがたい。さ、参ろう」と斉藤宇八郎は喜んだ。
続く
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