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二十七 測量術
吉文字屋には元吉以外に七人の奉公人や見習いがいた。そのほとんどが下級武士の次男三男である。元吉は工藤家の紹介なので、百姓という身分でありながら武家の子弟と同じ扱いを受けた。次郎兵衛も元は武士であったという。どのような役目で、なぜ商人になったか不明である。その次郎兵衛が二階の広間で奉公人全員を前に正座した。少し離れて元吉も正座する。
「今度新しく、この高宮元吉が奉公することになった。工藤先生からの預かり人だ。見た目は若いが年は二十七歳。みんなの中で最も年寄りだ。出羽国から江戸へ来て間がないようだ。わからないことは教えてやってくれ。さて、きょうは測量術についてお前たちの勉学の成果を聞く日だ。酒本六助立て!」
「はい!酒本六助。規矩準縄(きく・じゅんじょう)について調べてまいりました。規(き)はコンパス、矩(く)は定規、曲がり尺を意味していますが、本日はコンパスについて調べたることと意見を申し上げます。コンパスは根発と書きますが、寛永二十年、南部藩にオランダの医師カスパルが漂着、六年後の慶安二年に長崎へ送られるまでの間、西洋流の測量術を教えました。その時の門下生に樋口権右衛門なる者がおり、万治三年、津軽藩四代藩主、津軽信政公に召抱えられ新田を開く堤を構築、津軽富士湖をつくった話は有名であります。この時、樋口権右衛門がよく用いた道具にコンパスがあります。その弟子、金沢勘右衛門の門弟に、高名な清水貞徳(しみず・さだのり)がいて江戸で津軽藩弘前一円の実測を行い見事な絵図をつくりあげました。この時使われた道具は、コンパス、分度器、象限儀、間竿、間縄、水準器があります。私の意見ですが、コンパスは西洋語なれば、そのまま「こんぱす」とひらがな書きにすべきだと思います。根発では「ねはつ」と呼ばれ混乱の因になります」
元吉は「これは、すごい」と心で叫んだ。塾となれば、これ以上の勉学をするのか。独学とはいえ雑学では自信のある元吉。塾通いの同年輩より筆も知識も上回っているという自負があった。ところが、いわば商家の奉公人の勉学が、学者塾のようにおこなわれていることに衝撃を受けた。
「よし!これからは、ひらがなで。『こむぱす』と書くようにしよう」 次郎兵衛はあっさりと六助の意見を取入れた。さらにこう、つけ加える。「吉宗公いらい江戸城内の大名屋敷が城外に出て、江戸はさらに大きくなった。これからの江戸は東西に伸びていく。宮大工や屋敷大工のための図面づくりも多くなるぞ。きょうは東西にわかれ未開地を八里まで調べる」
「はい」と八人が合唱した。これから現場調べに行くのだ。奉公人達は、それぞれ道具を持った。帰りは遅くなるようだ。このなりゆきの中で、どう生きてゆけばよいか。かすかな入口が見えた元吉であった。
続く
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