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二十五、吉文字屋次郎兵衛
築地から日本橋通りは近い。まず日本橋に立つと、その人通りの多さに驚いた。橋の真ん中に立つと江戸城郭の向こうに富士山が見える。新しい着物のせいか、心も体もふわふわと軽い。どすんとぶつかってきた町人がいた。
「おっと、ぼやぼや歩いてんじゃねえ!」とすごみをみせて、柄の悪い男が元吉の顔をのぞきこんだ。その男が離れようとした時だ。元吉の腹巻から財布の紐が男の手に引っぱられていた。念のため長い紐を腰にぐるぐる巻きにしていたのである。「すり」だった。ふつうなら盗まれるところだが、元吉は行商で旅なれしている。男の腕をつかんで叫んだ。
「この男は、すりですよ。みなさん。お役人を呼んでください!」田舎者と思っていた盗人はあわてて財布から手を離し腕をふりはらって逃げた。「ははは」という通行人の声が聞こえたが誰だかわからない。みんな忙しそうに橋を渡っていた。見物気分を自戒して、元吉は吉文字屋を探した。
この界わいは全国から集まったあらゆる職人や商人が軒を並べている。吉文字屋はすぐ見つかった。二階建て。間口三間ほどの屋敷風であった。中に入っても商品となる地図は一枚も展示されていない。かわりに和紙や材木板数枚が積まれていた。店番の番頭はいない。「ごめんくださいまし」と声をかけると、奥の部屋から五十歳前後の主人らしい小男が出てきた。
「工藤家の綾子様の文を持って参りました」と元吉は綾子の手紙をさし出した。小男が「わしが吉文字屋次郎兵衛だ。綾様とは、きのう会って頼まれた。お前さん。蘭学見習いだそうだな。ところで綾様が書いた文の中身を見たかい」「いいえ」「そうかい。まず礼儀は心得ているようだな。次は頭だ。ここに来るまで行ったであろう日本橋の絵を描いてみな。絵の上手下手でなく、お前さんに町見(地図)を描ける才覚があるか、どうかをみたい」
次郎兵衛は紙と筆を渡した。描く場所は店先の上がり口。なんとも描き難い場所であった。これが「試し」なのだ。行商先の道端で書いた経験が生きる。ただし即刻出来上るわけではない。しばらく時が要る。なのに次郎兵衛はじっとこちらを見て、すわったままだ。おまけに催促してきた。
「やはり田舎者だな。のんびりしてらあね。絵はな。さっと描くものだよ」それではと元吉は、空から見下ろした形の道順に書き直した。これなら早い。「これは、道順を描いた時の書き方でございます」「えっ道順だと?お前さん。この吉文字屋を馬鹿にしていないかい」「これは絵でなく町見です」「日本橋に住んで三代目のおれに日本橋の道順を書いた男は、はじめてだが」
続く
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