中高年・シニアの連載小説を楽しむ

中高年・シニア交流サイトい〜悠々
文字サイズの変更
 


二十、毒殺
 
それから数刻の出来事は悪夢の一語につきた。双子の娘は共に十四歳である。家基に寝所で弄ばれた。その悲鳴を松井甚助、妻の登瀬、谷島七右衛門が聞いていた。まるで鶏が殺されるような声であった。高価な布団には真っ赤な血が飛び散っていた。やがて…。さらなる悪夢がはじまった。

「誰かある。喉が渇いた。茶を持て!」という家基の声が響く。隣の部屋で様子を伺っていた甚助は「庭の見える部屋へお運びくだされば、抹茶をさしあげたく。お願い申し上げまする」と懇願した。娘達の哀れな姿を見るにしのびない。七右衛門も「お願い申し上げまする」と言葉を重ねた。
 
登瀬が立ち上がり庭伝いの廊下を静かに歩いた。「お点前は妻女にとのおおせである」と七右衛門が命じたからである。登瀬は娘が放心する部屋をちらりと見た。屏風の陰で茶筅の音を立てた。乱れた寝着のまま家基が現われる。

「甚助の妻女か。娘は二人とも、そっくりなのに驚いたぞ」と屈託がない。登瀬は饅頭と茶を差し出すと無言で平伏した。入れ代わりに七右衛門が家基の前に出て「お体を拭きまする」と言上する。

「うむ。庭に出て裸になろう。少し寒いが気持ちがよさそうだ。うっ。この茶は苦いのお。もう一杯つくれ。次は少し薄めにせよ」七右衛門は熱湯で蒸した手ぬぐいを十本用意した。庭へ出て家基の血なまぐさい体を拭いた。とくに股間をていねいに拭いた。少年の股間はまだ元気なふくらみがあった。十年先、この日を思い出し将軍と大笑いする場面を想像する。

部屋で登瀬が黙々とお点前を立てる。何事もなかったような静寂があった。松井の屋敷を出たのが午(うま)の刻九つすぎ。(昼過ぎ)家基と四人の家来が北品川宿へさしかかった時。変事が起こった。家基が「気分が悪い」と胸の痛みを訴えて落馬したのである。

七右衛門は近くの東海寺に家基を運びこんだ。徳川家ゆかりの寺である。急ぎ医者が三人呼び寄せられた。七右衛門はすぐ配下を田沼邸へ走らせ、さらに江戸城へも走らせた。もう一人の配下は松井宅へ飛んだ。松井夫婦と娘達を捕らえるためであった。医者は「毒を飲まれている」と断言する。

その頃、松井宅では登瀬が狂ったように夫の甚助をあざ笑っていた。「いかに次期将軍様とはいえ度がすぎております。娘達は側女ですらない。双子という珍しい雛鳥を食い散らしただけのこと。このような将軍様では徳川の世も末でございます。たしなめるご家来がいないのも情けない。私は毒を盛りました。もはや天下の大罪人。即刻離縁状をくださいませ。さすれば旦那様と娘たちに助かる道がありましょう。私は自害いたします!」「何という短慮だ。お世継ぎにもしものことがあれば、私も娘も同罪である。それがわからぬか!」甚助は放心したように崩れた。

続く






TOP