十七、鎖国の海
風説考は、近年の切迫した様子も追加してある。安永七年(一七七八年)六月。蝦夷地の霧多布(キリタップ)に赤蝦夷(ロシア人)の大船が着岸した。霧多布は、商人・飛騨屋の請負場所である。この時、飛騨屋に通訳はいない。松前藩士・新井田大八がアイヌ語を使って対応することになった。
赤蝦夷船の船長イバンレエンチチは、船上に鉄砲を持った五十人の赤服船員をならべ大八を迎えた。大八が驚いたのは鉄砲や赤服の兵ではない。イバンレエンチチが流暢に「日本語を話すことができます。徳川幕府と通商条約を結びたい」と語りかけたことであった。これには腰を抜かした。
赤蝦夷の日本語力については、日本人の漂流者が大きな役割を果たしていた元禄八年(一六九五年)大阪の淡路屋又兵衛が江戸へ航行中、悪天候で進路を失い漂流した。生死をさまよい蝦夷地、千島諸島の先にあるカムチャツカ半島にたどり着く。ここで船乗り伝兵衛だけが生き残り原住民に助けられた。
その二年後(一六九七年)、ロシアの首都モスクワの大帝ビョートルの命で東方探検した一隊がカムチャツカ半島を発見、千島諸島を南下するようになった。探検隊は伝兵衛の存在を知り彼から日本のことを聞き出し日本語教師にしたのである。宝永七年(一七一〇年)カムチャツカ半島に漂着した三右衛門が伝兵衛の助手になる。
享保十三年(一七二八年)薩摩の若潮丸が大阪へ向かう途中、遭難してカムチャツカ半島に漂着して宗蔵、権蔵が日本語教師になる。延享元年(一七四四年)南部船・多賀丸が江戸へ向かう途中、遭難して漂流。千島諸島オンネコタン島に漂着。生き残りのうち数人が日本語教師になる。
さて松前藩士・新井田大八は「日本国は鎖国令がある。ウルップ島で待っていてもらいたい。まず松前藩主に伺いを立て、ウルップへ回答の使いを出す」と回答した。ウルップ島は蝦夷地から海路で、国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島を経た先にある。ウルップ島はもともと無人島である。漁獲期になると一時的に周辺諸島のアイヌ人が集まって、ラッコ狩りをするのが習慣であった。
ところが明和五年(一七六八年)イバンレエンチチの率いるロシア船がウルップ島に寄航した。その翌年。今度は武器を積んだロシア船がアイヌ人達を殺傷して追い払ってしまった。アイヌ人達は松前藩に助けを求めたが、松前藩はまったく動けない。安永二年(一七七三年)ロシア船がウルップ島からの帰途、遭難して島の西浦にあるアタツに打ち揚げられた。救助したのがアイヌ達である。
これを契機にアイヌとイバンレエンチチ達は和解して、円満に交易をはじめた。新井田大八は、それらのことをすべて知った上で待機場所をウルップ島に指定したのである。回答を、うやむやにするつもりだ。
続く
|