十三 浅草寺裏
「おい待ってくれ」と侍が呼んだ。元吉はもめごとに、かかわりたくない。知らぬふりして立ち去りたい。および腰で立ち止まった。ところが男は思わぬ哀願をする。
「私の屋敷まで連れて行ってくれんか。足の骨も折れているようだ。礼はする。まず駕籠を呼んでもらえればありがたい」「駕籠は呼んでまいりましょう。そのあと、失礼いたします」「江戸は、はじめてと見た。しばらく、わが家に来ないか」
江戸に来たばかりだと見抜いている。気味悪くなった。さすがは江戸だ。化け物のような人間が転がっている。寄宿の即答は避けた。「まずは、駕籠を探してまいりましょう」「そうか。頼む」男は当然のように腕を組んだ。
元吉は、大川橋のほうへ走った。 駕籠を伴って浅草寺裏へ戻ると、侍は笑顔で待っていた。足は引きずっている。痛いようだ。どこかの店に住み着くつもりの元吉である。江戸での足がかりになれば幸いだ。侍は初老に見える。が親しみやすい。それに非凡な洞察力がある。悪人ではなさそうだ。駕籠はにぎやかな商人町を通って築地へ向かった。着いたところは新築された豪邸の前であった。元吉は、きょろきょろしながら駕籠の後にいる。
「よおし。ここだ」と駕籠の中から声がして侍は降りた。「いたい!」というので元吉が肩を貸した。侍と元吉は屋敷の表玄関を入る。ばらばらと書生のような男達が走り寄ってきた。「どうされたのです」とその一人がいい、元吉から侍を受け取る。侍は書生二人で中へ担ぎこんだ。
屋敷の玄関口に、二十代の娘が現れた。「父上が大変お世話になりました。どうぞお上がりくださいませ」と、はきはきした口上である。「高宮元吉と申します」と、はじめて名乗った。「工藤平助の娘、綾子と申します」と丁重に両手をつく。
やはり侍の屋敷である。書生の様子から蘭方医ではないかと推察した。廊下を通る時、大部屋に十数人の老若男女の姿が見えたのだ。庭のある小部屋に通された。工藤が足を引きずりながらやってきた。
「わしは工藤平助と申す。仙台藩の藩医である。病人は身分を問わず他藩の大名から江戸町民まで診ておる。少し変わり者といわれているが蘭学者の仲間も多い。そんな私が怪我をした。話にならん。ところで、何か一筆書いてくれんか。お前さんの筆の腕を見たい」それは、どんな人間か診たいということだ。
「紙を一枚いただけますか」といい、差し出された和紙に元吉は「生国 出羽国 楯岡 高宮元吉 行商人」と書いた。
続く
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