特別コラム『近松心中物語伝説』 (前編) By プロデューサー/中根公夫




写真提供/ポイント東京 撮影/石郷友仁
「新・近松心中物語」、今度は上に「新」がついていますが、この作品が遂に九州にまいりました。1979年東京の帝国劇場で幕を開けてから25年、通算千回以上上演された名作です。初演の時は平幹二朗・太地喜和子・菅野菜保之・市原悦子・金田龍之介・山岡久乃などの顔ぶれでしたが、太地・山岡さんは物故され、舞台は伝説になりました。そうです。この芝居はいろいろな原因で伝説化され神話化されました。この傑作の脚本を書いた秋元松代さんは4年前、千回記念公演の舞台で元気に挨拶をされて20日後、公演中に90歳の天寿を全うされましたが、初演の時69歳で、その時すでに演劇界では神秘的とさえ云える伝説の老作家でした。




私はこの企画、近松の作品を現代劇として成立させるという企画の根本である脚本を秋元松代さんに書いて頂こうと思った時、そう思いはしても何度もためらったことを覚えています。その時39歳の私にとっては仰ぎ見る大家。そそり立つ大岩のようなきびしいオリジナル作品を書き続けてきた秋元さんにいわば脚色もので商業演劇向けになどととても書いていただけないと思ったのですが、案に相違して快諾して頂けました。蜷川さんが演出なら面白いから書く、と。伝説の原因は多く蜷川演出の故でもあります。大群衆の幕開け、あの大雪の心中、本水の川、それらは皆当時のどんな劇場にも見られない新しい、いわば蜷川式スーパーリアリズムというべき舞台の革新でした。ある日太地喜和子の楽屋の前を心中場面の前に通りかかると、喜和子が洗面器に両手を浸していました。何をしているのと問うと、雪の中の心中だから当然冷え切っているはず、平さんが私の手を握った時冷たい方が気持ちが通じるでしょ、とその為に氷水で冷やしているのでした。これもスーパーリアリズム、演出方針を役者が汲んで自分で考えたのです。このエピソードも伝説となりその後歴代の梅川に受け継がれています。

 (後半は次回で紹介します…) ⇒ 後編へ


写真提供/ポイント東京 撮影/石郷友仁


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