ぶたい制作日記 2005年4月28日(木)

「良い本と悪い本」

桜前線はもう何処のあたりまで北上したのでしょうか。昨年の地震で大変な思いをされた上越の人達も満開の桜を目にされたでしょうか。東京は花粉の飛散もピークを超え、街行く人達の表情は大型連休を前にどこか楽しげに見えます。皆様はどちらかにお出掛けになりますか?

さて今回は先週のつぶやきでお約束した通り“良い本(戯曲)・悪い本(戯曲)”に関してお話ししましょう。

とはいうものの「良い本と悪い本」。こんな大それた、ひょっとしたら演劇界に物議を醸し出すようなタイトルを付けて、本当に大丈夫なのでしょうか・・・。話の成り行きでお約束してしまったものの、気の小さな小生は少しばかり不安になって参りました。(安易な約束など決してするものではありませんナ)

まあしかし、このつぶやきは一流作家(脚本家)のそれでもあるまいし、それ程の影響もありますまい。よしんばどこぞのお偉方からお叱りを受けたとしても、それは当サイトが社会的影響を与える存在に至ったということ・・・。ここは一つ勇気を持って敢えてこの問題に取り組んでみましょうか。

まず始めに、本(脚本)の良し悪し、この判別は舞台作品の作り手(カンパニー)の価値観によってその採点(判断)基準は違ってきます。更にそのカンパニーの誰が判断を下すのか、ということによっても。例えばチケットを一枚でも多く売ることが責務である営業マンであれば、当然売り易い内容のものが“良い本”ということになります。今のご時世で言うなら“明るく・楽しく・単純明快”なもの。一方宣伝を担当する者であれば、オリジナリティに溢れ、かつ説得力のある宣伝が可能なもの、ということになりましょうか。こうしてそれぞれの立場で捉え方が違ってくるのですから、一概に一つだけ答えを導き出すことは難しいことではあるのですが・・・ここでは演劇を生業とする自らの立場を離れ、あくまでも純粋にこよなく演劇を愛する一般人として申し上げることに致しましょう。

些か前置きが長くなりましたが(本当に長かった)、小生が思うに本の良し悪し、それは脚本の持つ生命力。具体的に言えば本の寿命(の長さ)ではないかと思うのであります。
いつだったか、このつぶやきでもお話ししましたが、現在も多くのカンパニーによって演じられているギリシャ悲劇などは実に二千年以上も生き続けている本ですし、ご存知シェイクスピア(戯曲)は300年。江戸時代、町人文化の中で開花しやがて芸として熟成していった歌舞伎もこれと同じく約300年。こうした舞台で演じられている戯曲は長い年月を経た今でも演劇人の、また観客の共感を得、心を揺さぶる力を持っています。では、この生命力とは何か?ということですが、それは書き手が観客に伝えたいテーマ、その中にどれだけ普遍性を持たせることが出来るか、ということになるのではないでしょうか。言い換えれば、普遍性こそが本に流れる熱い血潮であり息吹なのです。

シナリオ教室やら脚本家を目指す人達向けの通信教育が流行っているくらいですから、作文という技術上の問題は大切な要因ではあります。これは言うまでもありません。しかし技巧を凝らし、流行の言葉を並べたところで、テーマに普遍性を見出せないとしたら、それは生命を宿した本にはなりません。さて、では齋藤雅文氏による脚本「好色一代女」、これはどうでしょうか。これは間違いなく井原西鶴の遺伝子を受け継いだ生命が宿っております。登場人物たちの息吹も、心臓の鼓動もしっかりと聞こえて参ります。正直なところ、新作の本を手にしてこれほど感動したのは久しぶりです。この生命を宿した言葉を、役者の台詞として聴いたらどんなに良いでしょう・・・。当カンパニーのスタッフでありながら、一日も早くこの舞台が観たい・・・。とすっかり一般人になりきってしまっている小生でございます・・・。

さぁて、前置きとともに気が付けば長いつぶやきと相成りましたが、最後にほんの少しばかり宣伝を。皆さまどうぞこの秋のこの舞台、「好色一代女」を楽しみにしていて下さいませ。ではでは


追記:少し前のことになりますが、高校や大学で演劇に目覚め、叶うことならプロの作家(戯曲家)になりたいという夢を持った何人かの若者から「これを読んで、感想を聴かせて下さい」と、半ば強引に原稿を渡されたことが何度かありました。プロを目指しているくらいですから、皆それぞれに文章を綴ることは得意なのでしょう。しかし残念ながら小生が読んだ本の中に、確かな息遣いを持ったもの、即ち生命を持ったものはありませんでした。生命を持たない本、それはただの物語・・・。こんな時の感想って難しいんですよね。それ以来、この手の申し込みは全てお断りすることにしております、ハイ。

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