
昭和52年。観光地めぐり。2人でバスツアーに参加。 |
Pデザイン会社から出張を依頼された。行く先は四国・松山市。郊外のミカン畑に設置されたスプリンクラーの取材であった。これは日立製作所のPR誌に掲載されるもので、カメラマン1名と同行する。
「一泊二日だけど、仕方ないんだ」なぜかウキウキする自分をかくした。「いいよ。気をつけて行ってらっしゃい」とマイはニッコリする。「飛行機が墜落したら、どうする」わざと意地の悪い質問をする。「馬鹿なことはいわないでよ」マイは鼻で笑った。
この時は結婚後初の外泊。つまりボクは一度も外泊したことがない。いつもマイと一緒にいる。昼間出かけることは多くても、夜は必ず食事をともにする。「はじめての外泊だね。さみしくないかい」「ないない。友達とゆっくりいっぱい飲むさ」「少しは心配してくれよ」「ボクは大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。よくわからないが、マイがボクの留守を、やけにうれしいそうなのが気になった。亭主が出張すると開放感があるらしい。 他の取引先には三日間出張するからと、断りをいれておく。ボクがいない間に編集の話が持ち込まれたら困るからである。こうした手配りをしていると、何だか、このまま帰ってくることができないのではと一瞬考えるボクは、何と小さな人間であろうか。海外出張なら、どんなことになるのか。
カメラマンと一緒に羽田空港に着くと、ボクは搭乗している間だけの生命保険に加入した。万が一の受取人にマイの名前を書くと、余計、遠いところへ行くような気分になる。自分でも苦笑する。このような妄想にかられる理由はある。事務所にはまだテレビがない。マイとボクは、ひまな時間があると松本清張の推理小説を競争で読みふけった。
「点と線」をはじめとしてトラベルミステリーブームがはじまっていた。 あまり出張したことのないボクにとって、飛行機はこわい。こんな重いものが、どうして空を飛ぶのかと思う。当時は、まだ四国に橋はかかっていない。四国架橋計画は聞いていた。しかし予算がなくて、とても出来ないのではといわれた時があった。それが一つどころか。三つも出来たと、のちに知って唖然としたものである。橋があれば、ボクは車を選んでいただろう。
国内線ということもあり旅客機は20人乗りくらいの小型機であった。飛行機ははじめてではないが、小型機ははじめてであった。小型機の欠点は離陸、上昇、降下をモロに感じることである。まるで遊園地のゴンドラに乗っているようであった。松山に着いた時、ボクはすっかり酔っていた。
(つづく)
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