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振り返れば楽しきかな我が人生 人生イメージ


結婚恋愛「マイとボク」 -8-
By 千里一歩さん

八幡市桂川
喫茶店も経営しまマイ。
京都・八幡市桂川近く。
(昭和42年)
昭和40年代は佐藤内閣時代のはじまりで、日本の中小企業は活況を呈していた。闇の世界も活況を呈していた。

いまでも覚えているのは明治不動産が全国的に、あらゆる媒体を使って「北海道を買おう!駅から五分。一区画100万円!」と大々的に宣伝していた。しかし実際は車で1時間。駅もない原野ということで苦情が出始め、ついに刑事事件になった。これを機に政府はボクたちの弱小新聞にまで「射幸心をあおる宣伝や記事はやめるよう」という通達がきた。また佐藤栄作首相は不況であっても「安定成長」を唱えた。ボクのようなもの書きのはしくれでも、いまだに、この政策は好感を持った。たしか日韓国交条約を成立させ、政治家ではめずらしくノーベル平和賞をうけている。
 
こんな話をするには理由がある。物書きという人種は、自分のふところに千円しかなくても、数兆円などマクロ経済の腐敗を批判する。つまりジャーナリストという意識が強い。自分達が貧しい故に、税金を湯水のように使う政治に腹を立てる。これは日本が敗戦し言論の自由が保障されたからだが、昭和20年の敗戦直後、マッカーサー元帥がプレスコードを決めた。それはスピード、正確、公平の3原則があった。佐藤内閣まで日本のマスコミはこの理想に忠実だった。それは政治のチェック機能でもあった。

やはり、自分でよい新聞をつくりたい。生活のためにPR記事は得意だが、半分はジャーナリストでありたい。その思いが強くなったが、こうした精神のわかる若者がいない。しかも営業もロクにできない。ニュースは共同通信の配信だけで、PR記事一つ書けない。外に出れば喫茶店で時間をつぶす社員が何人かいて同じ喫茶店で出くわすことも多くなった。

やがてボクは書きたい記事を書くゆとりもなく、金策に走り回るようになった。そして自立してはじめての倒産に至った。仕事のできない社員ほど退職金を出せと喰ってかかった。いいたいことは山ほどあるが、経営責任者として、そんな野郎にも頭を下げた。マイの店も廃業した。この開業中、心配して山梨や東京からマイの兄や、妹が来てくれていた。その頃は、順調な時でよかった。とにかくマイと一緒になって、第二の挫折に放心した。自信過剰だった。それだけに、どうすればよいか考えることもできなかった。
 
マイは妊娠していた。おろすより仕方なかった。なぐさめるどころか、反対になぐさめられた。計画的倒産ではないからお金もほとんどない。マイはボクが仕事人間だとわかっている。それは認める。

しかしある日めずらしく冗談まじりにドキリとするような質問をした。「ねえ、もし私が別れるといったら、どうする?」どうやら妻を持つ資格のない男だとわかってきたようである。その時ボクはこういった。これは笑いながらも真剣だった。「テレビで、帰ってきてくれ〜と呼びかける。格好悪くてもやるさ」と、おどけた。さらに「いい時ばかりではないだろう。そりゃぁボクには欠点があるさ。でも山梨に、マイがボクのことを悪くいったら、マイが悪くいわれるよ。そうだろう。亭主の悪口をいう奥さんがいるけど、聞いているほうは、そんな亭主の奥さんは自分じゃないか。いやなら離婚すればいいとしかいわないよ。そういう人が最後まで、親身に世話してくれるとは思わない。その人がどんなに立派でも、ずっと一緒にはいてくれない」

するとマイは答えた。「そんなみっともないことされたら山梨に帰れないよ」と笑ったが、冗談だけではなかったと思う。ボクなら、そういうことをやりかねないと思っている。行動的すぎる男だからだ。それでもボクの考えに反論するマイではなかった。いつか、いい時が来るだろうと思うしかない。

「とにかく山梨へ行って、しばらく考え、今度は地道に働こう」と説得された。それしかない。が、山梨に、どの面下げて行けるのか。泣きたい気持ちのまま東京へ行き、山梨へ向かった。山梨では実家でなく、山奥の旅館に泊まった。この時マイには内緒で2句つくった。「山梨や ああ山梨や なにも梨」「ついて来い、妻にいわれて、梨の旅」ボクには、こんなノンキなところがある。その後、「うちのダンナは、やるときはやるけど、ノンキなところがあるんだよね」と姉に語っている。ボクは、これを悪口と思っていない。自分でも、そう思うからだ。
 
電話をかけてマイの父と兄が、驚いて駆けつけた。マイの父は「温泉でも招待してくれると思ったけど」と精一杯の皮肉をいった。そのあと「とにかく、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう。うちへ来い」という。マイにくわしい事情を聞いている。兄は一度、京都へ来ているから少し親近感がある。いわれるまま、義兄の運転する乗用車で旅館を出た。着のみ着のまま、こうして再び山梨の実家へ向かった。俺は戦った。やるだけやった。マイさえ理解してくれれば、どんな恥も耐えられる。すでに秋であった。

ボクが一人で部屋にいる時、別の部屋でマイは父と兄から「あんな奴とは別れろし」とさんざん説教された。「マイなら、まだ貰い手が他にある。子持ちでよければ、いくらでもあるじゃんけ」と攻められた。 その時、実母の妹である義母が、きっぱり発言した。
「じゃあ、亭主が失敗したら別れるの。マイが一緒にいたい男と苦労するのは仕方ないじゃん。別れる別れないは、本人が決めることずら。そんなことをいったらマイが可哀想じゃん」これで男達は黙ったそうだ。ああ。

(つづく)



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