| 結婚恋愛「マイとボク」 -34- |
By 千里一歩さん
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父 |
マイは、ボクの父親を好きだった。会えばどうしても父と親しくした。そのぶんボクの母とは険悪だった。母はわがままに育ち、よく毒舌を吐いた。それは常識をはるかに超えるものであった。誰からも嫌われた。そのためにボクはマイの親兄弟には会わせることをしなかった。それでも親は親である。距離をおいて月に1度は会っていた。両親と会う時は必ずマイと一緒だった。それがマイとボクの両親とをつなぐ唯一の手段でもあった。
昭和天皇が崩御し平成時代に入りバブル経済がはじけた。イヤな予感のする時代のはじまりである。それは警察からの電話ではじまった。
平成2年の春。「あなたのお父さんを預かっています」という電話があった。聞くと父が川崎大師付近の道路で倒れているところを通行人が見つけ警察へ通報、一晩泊めたという。怪我をしていれば救急車で運ばれ入院していたのだろうが怪我はない。状態は完全に痴呆症であった。服の裏には大きく連絡先が書いてある。当然ボクの住所、電話番号である。じつは昭和63年から時々、自宅を出て徘徊し、とんでもないところまで歩くことがあった。少しボケてきたのだと思い念のために連絡先を母でなく、ボクのところにしておいた。何かがあれば母よりボクのほうが速やかに対応できる。
両親は川崎大師をよく詣でていた。自宅は調布市だが、もう父は働いていない。暇をもてあましている。バスでJRに乗り換え千葉や錦糸町、川崎へ出かけていた。それにしても、いつも一緒に同行している母はどうしたのだろう。また途中で喧嘩して別れ、さっさと一人で帰ったに違いない。そうだとしたら、ずいぶん無責任ではないか。などと思いつつ「今日1日は仕事ができないよ。会社は頼む」とマイにいい、マイカーで出かけた。おそらくロクに歩けないに違いない。車は、このために買ったようなものだ。
川崎の警察署に着くと若い警官が対応した。父は留置場でなく宿直室のような部屋に寝ていた。抱えると、わら人形のように軽く、思わず涙があふれそうになった。厚く礼をいい、かかった経費があれば支払うと申し出た。「いや、カップラーメン1個だけです。雑費がありますから」と、そのラーメン代はとらなかった。きくと、こうしたボケ老人の徘徊確保は警察の仕事だという。ボクは父を抱えて車に乗せた。どうやら空き腹であることがわかった。それも数日前からであると思われた。すぐ近くの飲食店に入りカツ丼を食べた。父はぺロリとたいらげる。食欲があればよい。ボクは安心した。きっと母から食事を与えられていないのだと思った。
「もうイヤで仕方ない。死んでくれれば」と母が話していたことがある。母がどんなに勝手なことをしても、生涯、母に何もいえない父であった。そんな父を後ろに乗せてボクは母のいる調布市へ向かった。多摩川大橋を渡った時、なぜか急に悲しくなり「わーっ」と声をあげた。
(つづく)
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