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振り返れば楽しきかな我が人生 人生イメージ


結婚恋愛「マイとボク」 -12-
By 千里一歩さん

神田事務所
昭和51年の神田事務所。マイは重役に。この事務所には多様な有名人が出入りした。
ある日、思いがけない人物がボクの事務所を訪れた。K編集プロダクションの社長だ。聞けば、当時の評論家Sが参議院議員選挙に出るという。応援して欲しいというので、喜んで快諾した。M銀行でボクの評判がいいと聞いたようだ。部長クラスと銀座でラーメンやおでんを食べたり映画に誘われることが多くなっていた。マイと仲よく仕事していることもある。

すると後日、ボクの名前でS後援会・神田支部長という名刺が届けられた。選挙はこうして、やるのかと感心したものだ。

その後、K社長の紹介で月刊総合雑誌「流動」に連載記事を書くことになった。同誌の編集長は「皇室とわが社のこと以外は何を書いてもいい」という。シリーズタイトルは「市民検察」つまり社会問題の摘発だ。1回400字で50枚という。

この記事ではテレビの「ドッキリ・カメラ」が一般人を驚かすことを止めさせたし、救急医療の実態でスクープをモノにした。スクープは都の交通事故相談所の一人から「必ず書いてくれるなら」と、ある遺族を紹介された。遺族は克明に記録していた。そのコピーを入手した。

それは娘の結婚式の帰途、世田谷のある交差点で小型トラックに軽く肩を当てられた50代主婦Aさんの話だ。「念のために」と同区内のOY私立総合病院へ運ばれた。ところが3日後、急に腹痛を訴えた。担当医は痛み止めの注射をした。1週間後また激痛がAさんを襲った。どうも様子がおかしいと院長が診断すると、絞扼性イレウスだという。すぐ手術して、しばらく体調は回復したが、3週間後、他界した。

遺族は都監査医の検死を求め死因と医療の因果関係に疑問を持ったまま結論を出せなかった。同病院の院長は東京医師会の理事である。ボクは担当医Iに「イレウスってどんな意味ですか?」と聞いた。「イレウスはイレウスです」と答えたのでムッとした。ただ真っ青になって手が震えている。お茶の水駅近くにあった医学専門書店を訪れ「イレウス」が何か調べた。「外科ノート」という本にあった。

それによるとイレウスは腹膜炎のことで症状は3種あり、腹痛を訴えて24時間以内に手術しなければならないとある。O病院は、初歩的な診断ミスをしたのだ。ボクは医師会のH常任理事にも取材した。入稿すると編集長が「医師会から掲載を考慮してくれといってきた。この部分を削れないか。原稿料は2倍払う」という。ボクは「削れません。遺族との約束があります」と返事した。「それでは、導入部分でなく、原稿の最後に組み替え出来ないか」というので諒解した。

この程度の圧力で事実をかくそうとするなら「検察」の意味がない。ボクは、そのシリーズを辞めた。原稿料が入ると、マイと二人で銀座のパブで遊んだ。そのパブは飛び込みで、はじめての店であった。以後、事務所にその店から「奥さん、いらっしゃいますか」という電話が入るようになった。ボクにではなかった。マイはアルコールが好きで会計担当である。ぼくは酒類一切ダメなのだ。が。雰囲気は好きであった。この頃から、よく二人でパブへ行くようになる。ストレス解消だ。こうした遊びはマイもすぐ同調した。似たもの夫婦だ。

ボクは取材にカネと労力をかけた。だから出版社は喜んでくれた。他の雑誌では「老人の性」や「サラリーマンの妻たち」が好評だった。「人物評論」誌では歴史秘話が意外な評判を得ていた。マイの従姉弟FNの紹介で、某政治家に関する編集と印刷を受注するようになり帝国ホテルでの有名人の集まるパーティーにも呼ばれた。おかげで国会議事録が入りやすくなった。人脈も増えた。

企業情報は大蔵省(当時)うらで、有価証券報告書を分析していた。世田谷・下北沢の大宅文庫も情報源だった不思議なことに情報公開が盛んに叫ばれるようになると、政治、行政、上場企業の情報は次第に非公開の傾向が強くなった。企業へは警察の天下りが増え、防衛を強固にした。まず商法改正で総会屋が締め出された。同時に良識的株主も一緒に締め出され企業はやりたい放題になった。公認会計士など何のチェック機能も持たなくなった。その結果は20年後あたりから続出するが、当時は、マスコミも煙にまかれていた。いまでも、そうだが。

K編集プロダクション時代の友人が出版社を設立した。ボクも日本経済の腐食の根源は天下りにあるという原稿を無料提供した。これが出ると対象の会社は警官あがりの社員に手を打たせて友人を出頭させ、翌日釈放した。「書いたのは誰だ」といわれたが「思い出せない」と突っ張ねたそうだ。「本当に思い出せなかった」と彼は苦笑いした。ボクの原稿はペンネームを使っていた。「お互いに、こうした記事はヤバイね」と話し合った。「無料原稿でしょ。馬鹿馬鹿しいから、やめてよ」とマイに釘を打たれた。

これいらいPR記事や歴史物を手がけた。編集代行は、よくて当たり前、つまらないものは売れなかった。ボクは事業家ではなく、自分の好きな仕事をすることに情熱を燃やすくせがあった。カネ儲けは苦手だった。
 
某政党の政策審議会事務局員O氏と親しくなった。「大人にならなきゃ」といつも助言してくれた。彼は経済の専門家で大蔵省担当。代議士の質問書は彼が原稿を書いていた。
O氏は自分の政党でも長所短所を明確に指摘するところが魅力だった。選挙になると地域の選対責任者として素晴らしい手腕をふるっていた。その人のお陰で、政党からの編集・印刷の仕事を受注するようになった。ボクも選挙対策室に参加して協力することになった。
(つづく)


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