| 結婚恋愛「マイとボク」 -1- |
By 千里一歩さん
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昭和37年7月 日比谷公園にて |
「ねえ、結婚恋愛というタイトルでいいかな」と妻に聞く。
「いいよ」という答えが返ってきた。いまでも手をつないで歩く仲だ。
戸籍謄本で確かめると二人が結婚したのは昭和37年8月7日。1962年だから、ちょっと計算してほしい。そのころ「恋愛結婚でなく、結婚恋愛しようか」とキザな言葉を吐いていたことを私も忘れていない。
ふつうは恋愛結婚という。それを「結婚してからゆっくり恋愛しない?」といった。好きだから交際する。交際すれば、いつも一緒にいたい。だったら一緒に暮らしたい。一緒に暮らすということは即結婚しなければ不純行為になる。では、というわけで初デートから1月後さっさと入籍した。
驚いたのは彼女の両親である。当時の私たちは25歳と24歳であり、出会ったのは、 ほんの2か月前であった。
私は長崎で生まれ育った。中学校を卒業して夜間高校に通ったが貧しい家庭なので早く少しでも役に立たなければと中退し長崎民友新聞社に勤めた。鉛を流し込む紙型づくり、輪転機係から編集へ転属できたのは故西岡竹次郎社長(長崎県知事)のおかげだった。中学3年生のとき、私は新聞部長だった。先生や校長に相談もせず西岡社長へインタビューを申し込んだところ、あっさり諒解してくれた。
その時の話の最初の言葉は、いまも忘れない。「かの有名なキッチナー元帥は、子供をみれば、その国がわかるといった」このことについては別記するとして、私は取材先の漂白剤発売元の社長に乞われ東京・神田の東京支社長に転職した。
一人息子にもかかわらず両親を置いてきたが、その両親も上京してきた。しかし宣伝カーに乗って問屋まわり、デパートまわり、女子宣伝員の養成に疲れ、先のことも考えず一年でやめてしまった。
楽しい思い出といえば当時人気のあった女優・小桜葉子と契約しテレビCMやポスターづくりの一切を体験したことである。社宅を出て貯金もなく江東区の安アパートに両親と住んだ。新聞の求人広告をみて新宿の商事会社に就職できた。広報担当だった。
その近くに彼女が勤める小さなレストランがあった。彼女はウエイトレスで身長144・5の小柄だが、きびきびとよく働いていた。被爆直後死んだ私の妹、隆子に似ていた。
彼女は山梨県で生まれ育ち大家族の中でも父親の畑仕事などをよく手伝った。中学生のころからバイクを乗り回して青年団で目立ち「嫁に来ないか」という話も出るようになった。村はお互いの家庭事情を知り尽くしているから資産もあり好感のもてる青年の求愛もふりきって突然、家出し上京していた。さて一人になり住み込み生活すると、いままでのにぎやかな家庭との落差が身にしみ、はじめて情けない孤独と意地に揺れていた。
そこへ現われたのが、客の1人である私だった。私も東京で女友達どころか男の友人もいなかった。大都会の片隅で2人の孤独が家庭的なぬくもりを求めていた。
(つづく)
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