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2008年1月26日(土) 全国ロードショー
母べぇ

公式サイト   http://www.kaabee.jp/


母べぇ
(C)2007「母べえ」製作委員会
<Introduction>

日本はもう、
この「母」を忘れている──

巨匠・山田洋次監督が描く、
激動の昭和を生きた家族の物語


第76回米国アカデミー賞外国語映画部門ノミネートの快挙を成し遂げた『たそがれ清兵衛』、続く『隠し剣 鬼の爪』、『武士の一分』の時代劇三部作で、国内のみならず海外でも絶賛され、今や世界から注目される存在となった山田洋次監督待望の最新作『母べえ』が、ついに完成した。
 
原作は、長年に渡り黒澤明監督のスクリプターを務めた野上照代が、幼い頃の家族の思い出を綴ったノンフィクション作品。
 舞台は、昭和15(1940)年の東京。夫の滋と二人の娘とつましくも幸せに暮らしていた野上佳代。その平穏な暮らしは、ある日突然、滋が治安維持法違反で検挙されてしまったことで一変する。戦争反対を唱えることが、国を批判するとして罪だったこの時代、平和を願う信念を変えない限り、滋は自由の身には戻れない。滋の元教え子の山崎や義理の妹の久子、型破りな性格の叔父・仙吉たちの優しさに助けられながら、佳代は娘たちを育て家計を支えるため奔走する。しかし、新年を迎えても滋は帰らず、やがて日本はアメリカとの戦いに突入していく......。


吉永小百合と実力派俳優たちの味わい深い演技

 どんな困難を目の前にしても常に子供たちと喜怒哀楽を精一杯共にする情愛深い母、野上佳代。同時に、戦争反対の信念を曲げない夫を尊敬し、何があっても信じて支え続ける、一本芯の通った妻でもある。そんな主人公・佳代を演じるのは、名実共に日本を代表する映画女優、吉永小百合。長年にわたる原爆詩の朗読やボランティア活動を通して、静かに平和の尊さを訴え続けている彼女が演じたからこそ、佳代の人物像に魂を吹き込むことができた。平和への願いを投影した渾身の演技で、見事に新境地を開いた作品となった。
 夫の野上滋には、歌舞伎界の重鎮であり、山田組には『武士の一分』以来2度目の出演となる坂東三津五郎。家庭では、妻や娘たちを慈しむ優しい父親であるが、一方でどんな苦境に立たされようとも自らの信念を貫こうとする高潔の人を見事に体現した。滋の教え子で留守家族を支える山崎徹には、浅野忠信。国内外の著名な監督に愛され、多くの作品に参加してきた若き個性派俳優が、これまでの作品では演じたことのないユーモラスな味わいを持った心優しい青年`山ちゃんaを好演している。滋の妹・久子には、『武士の一分』のヒロイン役で鮮烈なスクリーン・デビューを果たした檀れい。また、佳代と滋の二人の娘役は、半年間にわたるオーディションで選ばれた。しっかり者だがナイーブな一面を合わせ持つ長女・初子役にはTVドラマ「14才の母」で注目され、近年TVドラマ、CMなど活躍めざましい志田未来。天真爛漫でおてんばな次女・照美役には佐藤未来。そして佳代の変わり者の叔父・藤岡仙吉には、近年俳優としても高く評価されている笑福亭鶴瓶が扮する。また、埼玉県川口市のSKIPシティに、綿密な時代考証を重ねて戦前の街並みを再現したオープンセットも見所である。


混迷する現代を生きる
すべての日本人へ贈るメッセージ

 「家族」というテーマは、山田洋次監督が折々の時代に大切に描いてきたテーマである。1970年には『家族』で、高度経済成長期の真っ只中、長崎から北海道へ移動する道中、幾多の困難に出会いながらも生きる希望を捨てない家族を描いた。1991年の『息子』では、バブル崩壊後、田舎と都会に離れ離れに暮らす父と息子が、一度は切れかけた絆を取り戻していく姿を描いた。いずれも、時代の空気を反映しながら、普遍的な家族愛を描き、多くの観客から深い共感を呼び、その年の主な映画賞を総なめにした傑作である。そして今、時代の求めに応じるかのように、山田監督が再び「家族」を描いた。物語の中で主に描かれる昭和15(1940)年から昭和16(1941)年は、日本が太平洋戦争へと歩みを進めていく不穏の時代。国際情勢の変化や不安定な政情の中、人々が先行きの見えない不安を抱えているという点で、現代とも重なる時代だといわれている。しかし、そこには、人と人の絆があった。ちゃぶ台を囲む家族の団欒は、信頼と愛情に満ちた空間であり、隣家に向かって開け放たれた風通しの良い縁側は、他人同士でも気軽に入り込み、助け合える交流の場でもあった。そんな今日の日本が失いつつある心を描き、困難な時にこそ何を信じ、守るべきかを問いかける感動作――それが、『母べえ』である。
 2008年、混迷する現代を生き抜くための真の希望を、日本に生きるすべての人に贈ります。


「母べえ(かあ)」とは───

物語の舞台となる野上家では、お母さんのことを「母(かあ)べえ」、 お父さんのことを「父(とう)べえ」、初子を「初(はつ)べえ」、照美を「照(てる)べえ」という愛称で呼んだ。


母べぇ
(C)2007「母べえ」製作委員会
<Story>

何もなくても、母の手があった。
悲しくても、母の胸があった。

最後の晩餐


 昭和15(1940)年2月、東京に暮らす野上家では、その夜も夫の滋(坂東三津五郎)と妻の佳代(吉永小百合)、二人の娘たちが笑いの絶えない楽しい夕食を囲んでいた。まさかそれが、家族揃った最後の晩餐になるとも知らずに......。翌早朝、まだ闇深い頃、ドイツ文学者である滋が、治安維持法違反で検挙される。政府批判につながる反戦を唱えたというのだ。特高刑事の小菅(笹野高史)ら、土足でなだれこむ刑事たちに縄をかけられる滋。怯える娘たちや呆然とする佳代に「父べえは必ず帰ってくるからな」と言葉を残して滋は連れ去られる。
 山口県で警察署長をしていた父・久太郎(中村梅之助)に猛反対された結婚だったが、佳代は後悔したことなど一度もなかった。夫への尊敬と愛情を胸に、しっかり者の長女初子(志田未来)と天真爛漫な次女照美(佐藤未来)の成長を楽しみに、つましくも、明るく前向きに暮らしていたのだ。野上家はお互いを「父(とう)べえ」「母(かあ)べえ」「初(はつ)べえ」「照(てる)べえ」と愛称で呼び合う仲睦まじい家族だった。しかし、突然夫を奪われたその日から、波乱の日々が始まった。


山ちゃん

 不安と悲しみを募らせる野上家に、滋のかつての教え子で、今は小さな出版社に勤める山崎徹(浅野忠信)が訪ねてくる。山崎は、事細かに調べてきた面会申請の手続きについて佳代に伝え「希望を失ってはいけません。大勢の心ある人たちが先生を応援しています。」と涙を浮かべて励ました。大真面目に頭を下げて立ち上がった途端、慣れない正座のせいでひっくり返ってしまう山崎。その慌てふためく様子に、佳代と娘たちは、思わず笑い出してしまう。暗く沈みがちだった母娘に久々に笑顔をもたらした不器用だが心優しい山崎は、親しみを込めて`山ちゃんaと呼ばれるようになり、野上家にとってなくてはならない存在になる。
 山崎の助言を受けて、佳代は何度も検事局や警察署に通い、桜が満開の頃、ようやく滋との面会が叶う。厳しい冬を凍てつく留置場で越した滋は、やつれ果てていたが、それからまもなく拘置所に移され、定期的な面会や手紙のやり取り、差し入れなどが許されるようになる。佳代は山崎を伴って拘置所に面会へ赴いた。滋の変わり様を見た山崎は、ショックを受け、泣いてばかりで大事な話は何も出来ぬまま、面会時間は終わってしまう。帰り道、恐縮しきりの山崎の姿を見て、佳代はしみじみと呟いた。「山ちゃんはいい人ね。」


父のいない家

 滋がいつ帰れるか全く見通しが立たないため、佳代は小学校の代用教員として一家の家計を支え始める。今では、家族4人の心をしっかりとつないでいるのは、会えない淋しさを埋めるように日常の些細なことまで綴った何通もの手紙だった。まるで日記を書くように父に手紙を書く初子と照美。ふたりの娘がのびのびと成長していく姿が佳代の心の支えとなっていた。隣組の付き合いもこなし、帰宅すれば深夜まで家の雑事に追われる毎日の中、滋の妹の久子(檀れい)が折りにふれ顔を出し、手伝いに来てくれた。広島から絵の勉強をするために上京してきた久子は、料理は苦手だったけれど、持ち前の快活さで野上家に明るさを振りまいた。
 夏休みに入ると、叔父の仙吉(笑福亭鶴瓶)が奈良から上京してきた。変わり者でわが道を行く性格の仙吉は、新宿の街角で「贅沢は敵だ!」のスローガンのもと、贅沢品撲滅運動を行っていた婦人運動家たちと一悶着起こしたり、家では思春期をむかえた初子にデリカシーのない発言をして怒らせてしまう。しかし、佳代にとっては、職場でも隣組でも、辺りをはばかって本当のことを言えない時代だからこそ、仙吉のあけっぴろげな率直さが、心の救いなのだった。しかし、その仙吉もやがて一人奈良へ帰っていった。生活の足しにするようにと大事にしていた金の指輪を置いて......。


揺るぎない愛

 昭和16(1941)年1月1日、佳代と娘たちは、ちゃぶ台に置かれた滋の写真に新年の挨拶をする。山崎が滋のいない淋しさを埋めるように付き合ってくれた。滋は改心すると誓う転向上申書がなっていないと、かつての教え子である杉本検事(吹越満)に突き返され、「国賊」と非難されていた。
 山口から父・久太郎が上京してきた。娘婿が思想犯として逮捕されたことによって公職を辞した久太郎は、滋が改心しないのなら、離婚しろと佳代に詰め寄る。しかし、どんな苦境に立たされようとも、佳代の滋を想う気持ちには、一片の曇りもなかった。ついに佳代は久太郎から勘当を言い渡されてしまう。
 そして、滋のいない2度目の夏が来た。「1年に1回、娘たちを海に連れて行くのは父親の僕の役目だったのに」と手紙で嘆く滋の代わりを山崎が務めることになったが、泳げない彼は、浅瀬で溺れかけてしまう。佳代が海に飛び込んで事無きを得た。「あぁ、参ったなぁ」と情けない声を出す山崎に安堵の笑い声を漏らす佳代と娘たち。とんだハプニングに見舞われながらも、父のいない淋しさを、一瞬忘れられた砂浜だった。


激動の時代へ

 昭和16(1941)年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、遂に太平洋戦争が始まった。灯火管制のため電灯にカバーをかけた薄暗い茶の間で縫い物をしながら、滋にどんな手紙を書くか、娘たちに語って聞かせる佳代。「今年もあとわずかになりましたが、お変わりありませんか......子供が成長する姿を見るのは本当に楽しいものです。あなたがどんなにか二人をギュッと力いっぱい抱き締めたいだろうか。それを思うと私の胸は......私の胸はキュンと痛むのです......」思わず声をつまらせ、うつむく佳代。ハラハラと頬を伝うのは、夫の無事と帰宅を願う深い愛の涙だった。
 昭和17(1942)年1月、ますます激しくなる戦況のなか、野上家に一通の電報が届いた......。

母べぇ
(C)2007「母べえ」製作委員会
<Background>

わずか60余年前、日本はこんな国だった
──激動の昭和を知るためのキーワード集──


治安維持法

主に国体変革、つまり国の体制(天皇制)を変えようとする結社や組織(たとえば共産主義や無政府主義など)を、思想犯として取り締まる法律。1925年の制定から何度か変更が加えられ、『母べえ』の時代である1941年には、刑期下限の引き上げなどの重罰化、支援者も対象とする取り締まり範囲の拡大など、より厳しいものに変更された。さらに刑期を終えた者でも再犯の恐れがあると判断されれば引き続き拘禁できるなど、一旦マークした者に簡単に自由を与えないシステムを作った。1945年に廃止されて以降は、「天下の悪法」と呼ばれる法律のひとつだと言われている。


日米開戦

1941年12月8日、日本はアメリカ・イギリス・オランダの連合国と開戦。午前7時に臨時ニュースとして国民に知らされる。1945年8月14日ポツダム宣言受諾、9月2日に降伏調印するまでを、太平洋戦争と呼ぶ。


言論統制

1941年12月17日、言論出版集会結社等臨時取締法が公布される。これを受けて、政治的・思想的な集会を弾圧すると共に、映画・演劇などのエンタテインメント、雑誌や新聞などの出版物、テレビ放送などが、国の体制を批判していないかどうか厳しくチェックされた。


特高

治安維持法に従って、天皇制に反対する思想や言論、活動を取り締まった秘密警察である特別高等警察の略。国民からは、街角の立ち話も聞かれていると恐れられた。1945年に治安維持法と共に廃止された。


転向

政治的思想や立場を変えること。『母べえ』の時代には、治安維持法違反で検挙された者たちの多くが、厳しい取調べや拘禁に耐えられず、共産主義から転向して誓約書を書いた。しかしなかには、父べえのように最後まで転向しないで獄死する人々もいた。


隣組

1940年、もともとあった習わしを、国の管理する制度にするために明文化した。主たる目的は、国民の一人一人を管理すること。5〜20軒の世帯を一組として、思想統制が隅々までいきわたり、配給(食糧や衣服、燃料などの生活必需品が、一定の量を決められて政府から国民に割り当てられること)や供出(民間から物資を政府に差し出すこと。たとえば、兵器が不足しているとして金属が求められたときは、多くの寺が鐘を差し出した)、訓練などが効率よく行われることを図った。


赤紙

在郷軍人を戦地に呼び寄せる命令書のこと。赤い紙が使われたので、そう呼ばれた。当時、20歳以上の男子は全員徴兵検査(身長、体重、病気の有無を調べる)を受け、甲乙丙丁戊に分けられた。甲以外は在郷軍人として、召集令状を受け取るまでは普通に生活していた。戦争末期には兵士が足りなくなり、『母べえ』の山崎のように体の弱い丙種以下の人たちも招集された。


二千六百年奉祝記念行事

天皇制だった『母べえ』の時代の日本では、年号は西暦ではなく皇紀で、「日本書紀」に記載されている神武天皇即位の年を日本の国ができた最初の年としていた。それに従うと、昭和15年(1940年)は紀元2600年にあたり、各地で祝典行事が開かれた。


贅沢品撲滅運動

1940年、政府は贅沢品の製造販売を禁止する規則を発令した。贅沢全廃運動委員会が設けられ、婦人の協力が求められた。「華美な服装は慎みましょう。指輪は全廃しましょう」と書いた警告カードが配られ、「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられた。製造販売を禁ずる規則なのに、婦人運動家たちの手で、結果的に使用も禁止された。


灯火管制

夜間、敵機の空襲の目印にならないように、照明に覆いをつけて暗くした。しかし、アメリカはこの頃、すでに高性能のレーダーを開発しており、あまり効果はなかったと言われている。


参考文献◎「戦中用語集」三國一朗(岩波新書刊)、「国防婦人会」藤井忠俊(岩波新書刊)、「昭和・平成家庭史年表」下川耿史 家庭総合研究会(河出書房新社刊)、「治安維持法小史」奥平康弘(岩波現代文庫刊)

<Cast>

吉永小百合 野上佳代

 東京都出身。1957年ラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビューし、59年『朝を呼ぶ口笛』(生駒千里監督)で映画初主演。以後『キューポラのある街』(62、浦山桐郎監督)、『男はつらいよ 柴又慕情』(72)、『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(74、山田洋次監督)、『動乱』(80、森谷司郎監督)、『おはん』(84、市川崑監督)、『華の乱』(88、深作欣二監督)、『外科室』(92)、『夢の女』(93、坂東玉三郎監督)、『長崎ぶらぶら節』(00、深町幸男監督)、『北の零年』(05、行定勲監督)等数多くの映画に出演し、数々の主演女優賞を受賞。名実ともに、日本を代表する映画女優である。本作『母べえ』は112本目の出演作となる。


浅野忠信 山崎徹

 1973年神奈川県出身。90年、『バタアシ金魚』(松岡錠司監督)で映画デビュー。以降、際立った存在感で日本を代表する俳優となる。近年の主な出演作として、『風花』(01、相米慎二監督)、『殺し屋1』(01、三池崇史監督)、『アカルイミライ』(03、黒沢清監督)、『座頭市』(03、北野武監督)、『父と暮せば』(04、黒木和雄監督)、『花よりもなほ』(06、是枝裕和監督)、『サッド ヴァケイション』(07、青山真治監督)など。また『孔雀』(99、クリストファー・ドイル監督)、『地球で最後のふたり』(04、ペンエーグ・ラッタナルアーン監督)、『珈琲時光』(04、侯孝賢監督)、『インビジブル・ウェーブ』(07、ペンエーグ・ラッタナルアーン監督)など海外の監督作品にも参加。公開待機作に『MONGOL(原題)』(セルゲイ・ボドロフ監督)、『剱岳 点の記』(木村大作監督)がある。


檀れい 野上久子

 京都府出身。1990年宝塚音楽学校に入学。92年雪組公演「この恋は雲の涯まで」で初舞台。93年月組に配属。99年より月組主演娘役を務める。また、99年、02年と2度の中国公演にも参加し`楊貴妃の再来aと現地で人気を博す。03年星組の主演娘役に就任。同年「王家に捧ぐ歌」が第58回文化庁芸術祭演劇部門優秀賞を受賞。05年8月宝塚歌劇団を退団。退団後は同年能楽劇「夜叉ヶ池」の百合役で、野村萬斎らと共演。06年、『武士の一分』(山田洋次監督)のヒロイン加世役で、銀幕デビューを果たし、各映画賞を多数受賞。07年は『釣りバカ日誌18』(朝原雄三監督)に出演。


志田未来(みらい) 野上初子(少女)

 1993年神奈川県出身。6歳から子役として活躍し、その演技力を高く評価される。05年、話題のドラマ「女王の教室」(NTV)での熱演で天才として一躍注目を集めた。映画では、『雨鱒の川』(04、磯村一路監督)、『春の雪』(05、行定勲監督)で、ヒロインの幼少時代を演じ、可憐な姿が話題を呼んだ。他に『椿山課長の七日間』(06、河野圭太監督)にも出演。おもなTVドラマ出演作に、「ハルとナツ届かなかった手紙」(05、NHK)、「サプリ」(06、CX)、「探偵学園Q」(07、NTV)などがある。07年、第15回橋田壽賀子賞新人賞を史上最年少で受賞。


佐藤未来(みく) 野上照美(少女)

 1998年埼玉県出身。3歳の時に「弁護士 高見沢響子4」(TBS)でTVドラマデビュー。以降、主にTVドラマを中心に活躍。02年より「こちら本池上署」シリーズ(TBS)でレギュラー出演を果たす。その後、ドラマ30「スウとのんのん」(05、CBC)、「エンジン」(05、CX)、大河ドラマ「功名が辻」(06、NHK)など話題作に続々出演。また、映画では、『CASSHERN』(04、紀里谷和明監督)、『エクステ』(07、園子温監督)などに出演。本作『母べえ』では応募者多数のオーディションにて照美役に抜擢された。現在、最も期待される演技派子役である。


戸田恵子 野上照美(大人)

 愛知県出身。人気アニメ「それいけ!アンパンマン」の声を筆頭に声優として活躍。洋画の吹き替えも多く、米女優ジュリア・ロバーツの出演作の殆どを担当している。1997年『ラヂオの時間』(三谷幸喜監督)で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。以降三谷作品を中心に、舞台「オケピ!」(00、03)、映画『THE有頂天ホテル』(05)など、数多くの舞台や映画・TVドラマ等で幅広く活躍。06年、舞台「歌わせたい男たち」で第13回読売演劇大賞最優秀女優賞を、「なにわバタフライ」「歌わせたい男たち」で第5回朝日舞台芸術賞・秋元松代賞を受賞。


笑福亭鶴瓶 藤岡仙吉

 1951年大阪府出身。大学在学中、六代目笑福亭松鶴に入門。関西でラジオ・TVを中心に活躍した後、86年から本格的に東京へ進出。「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)、「ザ!世界仰天ニュース」(NTV)、「きらきらアフロ」(TVO)、「笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ」(ニッポン放送)など、TV・ラジオはもちろん、落語会にも積極的に取り組んでいる。映画出演は、『13階段』(03、長澤雅彦監督)以来。


中村梅之助 藤岡久太郎

 1930年東京都出身。45年、前進座入座。舞台では「勧進帳」の弁慶、「俊寛」の俊寛など。TVでは大河ドラマ「花神」(77、NHK)他。93年「魚屋宗五郎」宗五郎で松尾芸能賞演劇最優秀賞、「一本刀土俵入」茂兵衛で第48回文化庁芸術祭賞受賞。TVドラマ「遠山の金さん捕物帳」の金さん役で70年京都府民映画祭TV部門男優賞、さらに01年、第11回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞を受賞。近年の映画出演作に、『釣りバカ日誌9』(97、栗山富夫監督)、『すずらん 少女萌の物語』(00、黛りんたろう監督)、『ユメ十夜』(07、市川崑監督)がある。


坂東三津五郎 野上滋

 1956年東京都出身。九代目坂東三津五郎の長男。日本舞踊の一大流派である坂東流の家元。57年3月、明治座「傀儡師」の唐子にて初お目見得。62年9月、歌舞伎座にて五代目坂東八十助を襲名し初舞台。歌舞伎十八番から新作歌舞伎、歌舞伎以外の舞台まで幅広い舞台活動を行う。01年1月、歌舞伎座にて十代目坂東三津五郎を襲名。舞台のみならず、映画『利休』(89、勅使河原宏監督)や『写楽』(95、篠田正浩監督)、TVドラマ「警部補・古畑任三郎」(CX)や大河ドラマ「功名が辻」(06、NHK)など映像分野でも活躍。06年日本芸術院賞ほか受賞多数。山田組には、『武士の一分』(06)の島田藤弥役以来2度目の出演となる。

プロダクション・ノート<初稿完成まで>

 山田監督から電話があったのは2005年9月5日。『武士の一分』の第二稿ができあがり、準備作業に追われている頃のことだった。
「来年の仕事が決まったよ。吉永さんが出演を快諾してくれたんだ。『武士の一分』も頑張ってもらわなきゃいけないけど、5%くらいの労力は次の仕事に向けてくれ」
 珍しく興奮気味の口調だった。次の仕事とは『母べえ』のことであり、吉永さんとは勿論、吉永小百合さんのことである。
 いずれ昭和を題材にしたものをとは以前から口にしていたので、その願いがついに叶うといった思いがあったのかもしれない。もっとも、『武士の一分』への労力をさくような器用なことが私にできる筈もなく、『母べえ』への取組みは『武士の一分』クランクアップ後、2006年4月16日、原作者である野上照代さんの取材から本格的にスタートすることになる。
 野上さんは黒澤作品をはじめ映画作りの苦労を知り抜いた方である。そんな野上さんの幼少時代の思い出話を聞くことは、わくわくすることの連続だった。原作を書くための資料となった貴重な手紙類(拘置所の父と家族との往復書簡)を書き写したノートも気軽にお貸し頂き、更に「どのように話を料理してくれても構いませんから」とおっしゃった。それは勿論、素晴らしい作品ができるならば、という条件付きに違いない。脚本作業にのぞむ日が近づき、背筋が伸びるような緊張感と責任感を味わった一瞬である。
 脚本作業に入ったのは2006年4月26日。取材・資料収集と同時並行である。6月30日、山田監督と脚本を書くために入っている旅館へ吉永さんが陣中見舞に来て下さり、そのことに背中を押されるような形で、7月18日初稿脱稿。クランクインに向けてスタッフの猛ダッシュが始まる。


クランクインまで

 物語の舞台は1940年から1942年を中心にした東京である。殆どのスタッフはこの時代の日本を知らない。野上さんから提供してもらった当時の家族写真やイメージ画をとっかかりとしてスタッフの中での共通のイメージを作り上げていくことから『母べえ』におけるスタイル作りは始まった。勿論、この家族写真やイメージ画は吉永さんはじめキャストの皆さんにもお渡しし、イメージの共通化を図った。
 更なる肉付け。これは手と足、そして目と耳を使って調べていくしかない。スタッフルームの壁は当時の写真のコピーであっという間に埋め尽くされ、本棚には資料が山積みとなった。
 美術的には野上さんが当時住んでいた高円寺周辺の古い地図や写真を参考に『母べえ』の野上家の環境(セット)がどうあるべきかについて何度も話し合うことからスタートした。
 衣裳は、野上さんのお母さんが実際に当時着ておられた衣裳を参考に持ってきて下さるという嬉しい協力を得られた。同時に小津安二郎や成瀬巳喜男等の戦前の映画や記録映像を見て、今では手に入らないくたっとした質感の布を再現するために単なる汚しとは違う工夫がこらされた。初べえ(志田未来さん)や照べえ(佐藤未来さん)が着るセーターは勿論手編みである。何度も水にさらし、日にさらし、そしてここが一番大事な所だが、母べえ(吉永さん)の愛情のこめられた補強や繕いを作っていった。
 メイクにも難題はあった。吉永さんの老けメイクについては特殊メイクをお願いすることになったが、今回一番変化に富むのは何といっても留置場、拘置所生活を余儀なくされていく父べえ(坂東三津五郎さん)のやつれである。監督は「キリストのように」という注文を出してきた。メイクルームにキリストの絵が何枚も貼られ、日々にらめっこし、父べえに相応しいキリストのイメージが研究されたのである。
 時間は永遠ではない。あっという間にクランクインは目前となった。


野上家セット

 2007年1月28日クランクイン。東宝撮影所第8ステージに建てられたメインセットである野上家からの撮影である。S#1〜S#6にかけての一日。それは野上家が家族揃って過ごした最後の一日でもある。翌日、父は特高によって連れ去られてしまう。
 父べえの書斎は、新しく見える古本でびっしりと飾り込まれ(監督曰く「昭和15年の本は、今は古本かも知れないけど、当時は古本じゃなかったんだ」)、知識人野上滋の人物が窺えるものとなっており、装飾スタッフの意気込みが伝わってくる。
 野上家の夕飯のメニューは当時の雑誌や日記類を参考に考え、里芋の煮っ転がしがメインディッシュとして用意されることに決まった。
 ただ一つ、決まらないことがあった。脚本である。野上家の最後の団欒をどのように描くか、山田監督は直前まで悩む。時代の重苦しさも出したい。親子四人のささやかな幸福感も出したい。案の定の号外(脚本の訂正原稿)が出る。
 クランクインの朝、支度部屋へ号外を持ってまわる。吉永さんが真剣な表情で目を通し、「わかりました」と頷く。坂東さんは「早速来たな」とニヤッとする。思えば『武士の一分』の時もそうでした、と思わず頭が下る。
 尚、最後の団欒のシーンにはおまけのエピソードがついており、これまた山田組恒例のリテイクとなったのである。山田組の撮影が始まったとひしひしと感じる瞬間でもある。  これが4月20日まで続く野上家セットとのつき合いの始まりだった。


母べえと子どもたち

 お芝居の大半を占めるのは母べえと二人の娘たちの暮らし振りである。この三人のチームワークこそ『母べえ』を素晴らしい作品に仕上げていく要といってもよい。そして脚本を書く時から山田監督は「母と娘たちを愛情たっぷりと描きたい」と何度も言ったものだった。
 クランクイン前から吉永さんは、最近の子どもたちの様子を知りたいと小学校を訪ねたり、照べえ役の佐藤未来さんと江戸東京博物館へ遊びに行ったり、子どもたちとの距離を縮める努力をおしまない。クランクイン後も、撮影の合間の待ち時間を使って紙風船で遊んだり、照明の暑さにばて気味になればアイスシートを用意してやったり。それは映像に映る芝居とは別物の時間なのだが、親子ならではのある種の馴れ馴れしさや我儘も含めて、そこで育まれていく子どもたちとの関係はどんな演出の言葉よりも確かなものであったと思う。
 そのことを最初に感じたのは、母べえが靴下の繕い物をしている時に娘二人がお風呂から帰ってくるシーンだった。正座して「ただいま」と挨拶する初べえ、一方の照べえは「ただいま」と言うなり母べえに抱きつく。針仕事をしている母べえはさっと繕い物をどけて、洗い立ての娘のいい香りに一瞬ひたる。しかし、それも束の間。姉の初べえが蒲団を敷き始めると、それを手伝うようにしっかりと促す。何でもないと思われる子どもたちとのやりとりなのだが、こういう場面こそ親子関係のリアリティーがなければ成立しない部分である。しかも、このシーンは拘置所にいる父べえへ宛てた手紙に繋がっていくシーンでもあるのだ。
 一つのシーンだけでなく全体を見渡して作品に静かに入っていく、そうして作り上げられた吉永さんの母べえは、少々の号外などではぶれない確固たる母べえであったと思われたのである。


オープンセット

 当時の家並、路地といったものを再現するためにはどうしてもオープンセットが必要、とはかなり初期の頃からの山田監督の主張だった。場所については様々検討されたが、結局埼玉県川口市のSKIPシティにある1万坪の空地に決定した。思えば、吉永さんの代表作の一本である『キューポラのある街』は川口市が舞台であり、運命的な決定といえるかもしれない。「吉永さん、お帰りなさい」の言葉に包まれてのオープンセット建築となり、撮影となった。
 2006年11月5日の地鎮祭を経て着工。SKIPシティの広場の一角、約600坪を使って14棟の建物を建て、路地を造る。地元の大工さんたちが腕を振るってくれたのだが、この建設に際し若い棟梁は昔修行時代お世話になった棟梁の元を訪ねて、戦前の建築についていろいろと助言を得たという。また、撮影用のオープンセットとしての工夫はかつて大船撮影所で大道具をしていた古いスタッフが手を貸してくれた。隠れた部分ではあるが、こんなところにも世代を超えた協力があったことは、『母べえ』という作品ならではのものだと感慨深い。
 このオープンでの撮影は2007年1月30日、野上家の表からである。エキストラの皆さんは埼玉県の有志の方々。焼跡へと飾り変えられたオープン最終日(4月27日)までのべ200名近い方々の協力に支えられての撮影だった。
 このオープンでの撮影の一幕。川口にしては静かな環境とはいえ、現代の街ならではのノイズはある。録音スタッフとしては、俳優さんたちにある程度台詞を張って喋ってもらいたい。浅野忠信さん演じる山ちゃんが初べえと照べえに父べえの訃報を伝えるシーンで、監督は「込上げる気持を抑えるようにそっと伝えてほしい」と注文を出した。それに答える浅野さん。「どうだい、これで録れるかい」と監督。「いや、もう少し張ってもらわないと」と返事。すかさず監督から飛んだ声は「今の浅野君がいいんだよ。簡単に録れないなんて言うな、心で録ってくれよ!」。「はい、心で録ります!」思わず返した言葉である。技術的には辛い部分だが、こんな場面にこそ燃えるのが山田組スタッフでもある。


大井川鉄道ロケ

 3月11日から13日、静岡県の大井川鉄道千頭駅での撮影。シーンは品川駅。奈良に帰る母べえの叔父仙吉(笑福亭鶴瓶さん)を山ちゃんと初べえ、照べえが見送る。ホームは入営する兵士を見送る人々などでごった返し、軍歌が歌われ万歳三唱の声があちこちであがっている。そんな中でのちょっぴり切ない別れのシーンである。
 エキストラの皆さんは静岡県内を中心とした有志の方々である。連日100名にも及ぶ方々が朝7時から支度をして撮影にのぞむ。戦前の話であるから、女性は大半が着物に丸まげ。不慣れな装いで四苦八苦したことと思われる。しかも、3月の寒いなかでの真夏のシーンの撮影。12日には粉雪までちらついたが不平の一言もあげず、寧ろ楽しんで下さる皆さんには感謝の気持で一杯である。
 撮影二日目、山田監督の要望で急きょ赤ん坊を背負った奥さんを登場させることになり、三歳の女の子を連れてきていた方にお願いする。ところが、背負い紐などで背負われたことのない女の子は激しく泣いてお母さんの手にも負えなくなる始末。その時、女の子に声をかけその手を取り、真っ先に泣きやませたのはなんと、照べえ役の佐藤未来ちゃんであった。鶴瓶さんも「照べえ、やるがな。ほんま今日は見直したで」と心から感心した様子。子どもの心を捉えるのはやはり子どもなのでありました。


飯田ロケ

 3月24日から27日。小学校の撮影が飯田市で行われた。母べえが勤める小学校の教室と講堂のシーンである。教室では40人の子どもたちを前に足踏みオルガンを弾きながら「富士の山」を歌う。また講堂では当時の四大節の二つ、天長節(4月29日)と明治節(11月3日)の行事が行われ、やはりそれぞれの歌を先生生徒を含めた約200人が歌う。
 実はオルガンの曲が「富士の山」に決まるまでには二転三転あり、その度に新しい譜面が起され、その度に吉永さんはわざわざこのシーンのために購入した足踏みオルガンで練習を重ねることに。何事もすんなりと決まらないのが山田組スタイルなのである。そして何事にも手を抜かない吉永さんのスタイルを垣間見た部分でもあった。その「富士の山」はともかく「天長節」も「明治節」も当時を知る人でなければ歌えるはずもない。監督は歌い方にこだわった。そこで、子どもたちの歌い方の指導にスタッフが当時を知る音楽スタッフともども先乗りして練習にあたることになった。まずは歌を覚えてもらうことから始めなければならない。現代の流行歌とは全く質を異にした「天長節」「明治節」をどのように再現していくか。尚、こだわりは歌ばかりではなく、少年(勿論丸坊主)少女(勿論おかっぱ)たちのなかには洟垂れ小僧やら、一銭禿(メイクさんのアイデアで作ったものである)のある子が何人も。朝6時半からの支度にもめげずに精一杯の歌声を聞かせてくれたのである。


奄美大島ロケ

 海水浴のシーンなのである。脚本に書かれ、撮影スケジュールがおおよそ決まったときからずっと懸案事項になっていたシーンである。......春の海は冷たいぞ、と。
 『男はつらいよ 寅次郎紅の花』以来、奄美大島は山田組と縁が深い。そんなことから、スタッフの一人が冗談交じりに「いっそ、奄美大島でやったら」と言ったことがいつか現実となってしまった。
 別の不安が一つ。果たして、エキストラが集まるだろうか。募集をかけ、様子をうかがう。蓋を開けてみると、なんと2歳から86歳まで総勢約40名の方々の参加がえられた。
 更に難問。撮影日程の4月30日から5月2日は大潮にあたる時期で、干潮になるとサンゴ礁が水面から出て来てしまうことがわかった。海水浴場の設定はあくまで三浦海岸である。サンゴ礁があっては撮影にならない。サンゴが水面下にあるのは、朝の8時から11時、午後3時から日暮れまで。正に、自然と闘いながらの撮影となる。
 シーンは、山ちゃんが海水浴の最中に浮輪から落ちて溺れ、それを母べえが服のまま飛び込んで助ける、言わばアクションシーンでもある。特に、母べえが砂浜を走って海に飛び込むシーンは服が濡れてしまうため簡単にはやり直せない。吉永さんは、水かさが増えて撮影ができる状態になるまで砂浜を何度も走ってイメージトレーニングを重ねる。スタッフもカメラを載せた移動を走らせ、タイミングをずらさないよう練習する。やがてその時がくる。スタンバイする。緊張が走る。監督の声がかかる。「よーい、ハイッ!」。皆の気持が一点に集中する中、吉永さんが走り出した。波打ち際で、一瞬止まり、海面を浮き沈みしている浅野さんを見据え飛び込むや、一直線に泳ぎ進む。監督の「カット!」に続く「オーケー!」の声がかかるまでの時間のなんと長かったことか。そして、海から上がってきた吉永さんの顔のなんと晴々としていたことか。
 この日、5月2日『母べえ』は無事クランクアップした。

                  文=脚本・助監督 平松恵美子

原作 野上照代
 1927年東京都出身。戦後、雑誌記者を経て、大映京都のスクリプターとなり、50年『羅生門』で黒澤明監督と出会う。51年、東宝へ移り、『生きる』(52)以降の黒澤全作品に参加。その傍ら66年以後、広告代理店サン・アドでサントリー等のCM制作を手がける。84年、自伝的少女時代の家族を描いた「父へのレクイエム」で、読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞優秀賞を受賞。同年、山路ふみ子賞功労賞を受賞。01年「天気待ち 監督・黒澤明とともに」を文藝春秋より上梓。04年文春文庫、06年米国より英語版で同著が出版される。07年12月、原作「父へのレクイエム」を「母べえ」として中央公論新社から、また映画人としての自身の半生を振り返った「昭和残留孤児」を文藝春秋から発刊。


■原作者の言葉
「映画は窯変することがある」と黒澤さんは言う。
陶磁器を窯の火焔からとり出す時、予期しなかった美しい色に変色していることだ。
私の粗末な素材は、窯変して「母べえ」となった。山田洋次監督のプロの腕によるものである。
そこに私は、昔の家族を見た。割烹着姿の母べえや幼かった私達姉妹。
ちょっと怖かった父べえもいて、映画を見る度に私は泣いた。
手では掴まえられない過去がそこにあり、不思議な気持だった。
あの時代の私たちは、吹雪の中で子供を守って立ちつくす
ペンギンたちのように耐えていたのである。
山田さんは、大声で叫ばないが、人間これでいいのか、と静かに怒っているような気がする。
いい映画です。