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<Introduction>
2人の少年が背負う、過酷な運命の物語
2000年、サンフランシスコ。小説家を目指し、アメリカでささやかであるが幸せの日々を送るアミール。ついに、子供のころからの夢であった自分の小説が出版された日、運命を変える一本の電話がなる。かつての故郷、アフガニスタンにいる恩人、ラヒム・カーンからだった。彼は、死期を悟りアミールへ重大な真実を伝えるため、20年ぶりに故郷に帰らないかと哀願する。そして最後に"やり直す道がある"と電話を切った。アミールは、その言葉で今まで心の隅に追い払っていた過去を思い出す・・・
1970年代のアフガニスタン。ソ連進攻前の平和な時代。子供たちの間では、冬の伝統行事として、凧上げトーナメントが行われていた。
裕福な家庭に生まれたアミール。母は出産と同時に死に、父親であるババに育てられる。ババは周囲からも慕われる厳格な父であった。母を自分のせいで殺してしまったと思っているアミールは、父に疎まれていると不安を抱きながらも、父に愛されたいと思い続けている。
そんな、アミールを支えてくれたのが、父の友人であるラヒム・カーンと、ハッサンであった。ハッサンは、アミールの一つ年下で、召使の子供であった。彼らは、幼い頃から一緒に育ち、いつも一緒に行動した。2人で映画を見たり、字の読めないハッサンに、物語を読んでやったり、誕生日にはプレゼントをあげたり、主従関係を超えた兄弟のような間柄であった。この2人の絆と信頼は一生続くかと思われた。
冬休み最大のイベントである凧上げトーナメントの日。アミールとハッサンは人生で最高の栄誉を得ることになる。しかし、思いがけない出来事が二人の関係を冷酷に断ち切ってしまう。彼らの生涯を決定付ける裏切りを生むのだった。その後、二人の心は決して交わることなく、アミールはソ連によるアフガニスタンへの侵攻の際にアメリカへ亡命する。一生抜くことが出来ないであろう棘が心に刺さったまま・・・
時は流れ─アミールはアメリカでの生活を送っていた。大学卒業、ソラヤという女性との結婚、父ババの死。多くの出来事を経験しながらも、裕福ではないが幸せな日々。そしてついに、自分の夢が叶った日にその電話は鳴ったのだった。
アミールは、ラヒム・カーンの言葉を信じパキスタンへ向かう。久々の再会に喜ぶ二人だったが、彼の口から衝撃的な事実が告げられる。ハッサンはタリバンに殺され、ハッサンの息子ソーラブも連れ去られたというのだ。そして、ハッサンが残したアミールへの手紙を手渡した。
その内容は過去の出来事など一言も触れず、ただ、アミールに対する信頼の気持ちがつづられていた。時がいくら流れても変わらない想い。彼はハッサンの気持ちに応えるためタリバン独裁政権下にある厳戒態勢のアフガニスタンに向かう。ハッサンが残してくれた信頼の言葉に応えるため、言えなかったこの気持ちを彼に伝えるため。"君のためなら千回でも"と・・・
しかし、かつての故郷に待っていたものは、残酷なほど過酷な運命であった。
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<Production Note>
奇跡的ベストセラー映画化の舞台裏
無名の新人作家のデビュー作が世界中でベストセラーに......そんな夢物語が2003年、現実に起きた。これまで紛争地域としてしか語られることのなかったアフガニスタンの知られざる面を描いたカーレド・ホセイニの「The
Kite Runner」は、家族の絆、幼い友情、許すことの勇気、愛によってのみ得られる救いといった普遍的なテーマによって、幅広い人々の心を揺り動かすことに成功した。同作はまた、アフガン出身作家によって書かれた英語作品という点でも他に類を見ない。物語はフィクションだが、ソ連軍侵攻とタリバン台頭以前の、"中央アジアの真珠"と呼ばれていた頃のカブールで少年時代を送った作者の記憶と移民としての経験が作品に説得力を与えていることは疑いない。
"私の小説に対する皆さんの反応には、今も驚かされ続けている"とホセイニは言う。"けれどもそれはきっと、皆さんに共感していただけるようなしっかりとした感情の核がこの物語にあるからだろう。罪、友情、許し、喪失、償いへの願い、もっとよい人間になりたいという願い──こうしたテーマはなにもアフガン固有のテーマではなく、その人の倫理的・文化的・宗教的背景とは無関係の、極めて人間的な経験なんだ"。
プロデューサーのウィリアム・ホーバーグとレベッカ・イェルダムを引きつけたのもこれらのテーマだった。だが実はそれはこの小説が有名になる以前、まだ出版前の原稿の段階でのことだった。ウォルター・パークスとローリー・マクドナルドが製作に加わった後、4人は原作の映画化権を確保。さらに彼らは、作者自身に積極的に関わってもらおうと考えた。"カーレドは、私たちみんなにとっての異国へと案内してくれる大使だった"とホーバーグは言う。
出版された原作は誰も予想しなかった勢いで売り上げを伸ばし、一大センセーションを巻き起こした。製作者たちが原作の爆発的人気に心躍らせたことは言うまでもない。批評家の反響も大きかった。「精霊たちの家」などで知られる移民作家イザベル・アジェンデはこう述べている。"あまりにも力強い作品だったため、その後長い間、読むものすべてが色あせて見えたものだ"。
"正直言って、私たちの誰ひとり、原作がメジャーな形で受け入れられることに疑いを抱く者はいなかった"とパークスは言う。"でも仮に本がヒットし、さらにそれ以上のことが起こり、それから数年が経ったとして、米国のメジャー映画がこういう類の多文化ストーリーにここまで寛容になるなんて、そんな予測は誰もできなかったよ"。
30年に渡る物語の脚本化
400ページもの小説の脚色という難役を任されたのは「25時」などで小説家として知られるデイヴィッド・ベニオフ。"みんなの間で共通していたのは、カーレドの美しい物語をきちんと扱いたい、そして原作の人間性と精神を可能な限り保持するよう努めたいという思いだった"と彼は振り返る。
脚本化に際してはホセイニが協力を惜しまなかった。ベニオフは言う。"彼はアフガニスタンの生活に関するあらゆる質問に答えてくれた。僕はニューヨーク育ちで、カブールでの少年時代なんて僕の経験からはかけ離れたものだったんだが、迷った時はいつでもカーレドが疑問を解消してくれたよ"。
30年に渡るアミールの物語を2時間の映画にまとめるのは、ベニオフにとって最大のチャレンジだった。"原作では色んな年齢のアミールが描かれるが、僕はこの役を演じる俳優は二人だけにしたいと早い段階で決めていた。それより多いと、観客がこの人物との繋がりを失ってしまうかもしれないと思ったんだ。そういうわけで小説の主な要素はほとんどすべて組み込まれているけれど、脚本は簡素化された年表になっている。幸運なことにカーレドの物語はとても力強いので、空間と時間の制約のある脚本という形式でも、そのパワーは失われていないと思うよ"。
ホセイニは脚本について、"デイヴィッドには脱帽するよ"と賞賛する。"これは難しい構成に挑んだ小説なんだ。30年間に及ぶ話だからね。回想はあるし、人物たちは年をとっていくし、カブールも繁栄の国際都市だったのが、アミールが戻る時には廃墟と化している。でもデイヴィッドは切れ目なく繋がっていくようにうまく処理していたので、完成稿を読んだ時、'これは名作になるよ'って言ったんだ"。
異文化を描くことに挑んだマーク・フォースター監督
本作の監督に求められたのは、文化への感性と想像力。マーク・フォースターが起用されたのは、人間ドラマからコメディまで様々なジャンルを扱いながらも、常に作品にリリシズムとヒューマニティを与えてきた点を、製作者たちが高く評価したからだ。彼が原作に深い親近感を覚えていた点も製作者たちを喜ばせた。"マークは異文化についての映画を撮ることに何の不安も抱いていなかったわ"とイェルダムは言う。"他の人なら混乱してしまいそうな障害も、マークは喜んで引き受けてくれた。それに彼はこの物語の核心と、彼や何百万人もの人々の心を捉えた理由に、単刀直入に切り込める人だったの"。
フォースター監督は、複雑な奥行きを持つアフガン文化を、アウトサイダーとしての立場で可能な限り自ら体験することが必要だと考えていた。"マークが、この映画の文化面をできる限り正しく描くために全力を尽くすつもりだ、そして観客が今まで見たことのないものを描きたい、と言うのを聞いて、私はとてもうれしかったね"とホセイニは言う。 映画の台詞をアフガニスタンの主要言語のひとつ、ダリー語で撮るという英断は、脚本執筆段階で成された。フォースター監督は、"この映画をダリー語以外の言語で撮るのは間違いだと思ってね"と言う。"1970年代のアフガニスタンの子どもたちが英語をしゃべるなんて、おかしいだろ"。
ホセイニもこの決断を歓迎する。"マークに、この映画はダリー語で撮りますと言われた時は、参りましたと思ったね。それでこう答えたんだ、あなたが私の本を優遇する気持ちは本物ですね、と。私にとっては登場人物たちが嘘臭くないことがとても重要だったからね"。
ベニオフとフォースター監督は、どの台詞をダリー語にし、どの台詞を英語にすべきかを熱心に話し合った。翻訳された脚本はホセイニが目を通し、より自然な感じになるよう、台詞の微調整や補足が行われた。
映画の製作が始まると、ダリー語を母語とするチームが雇われ、ネイティヴではない俳優たちへの発音指導や、撮影現場での台詞のチェックを担当した。現場での通訳を受け持ったのは、アフガニスタンからの移民でカリフォルニア大学バークレー校法学部に通うホセイニの従弟である。また文化考証のアドヴァイザー数名が撮影につきっきりで細部まで確認を行った他、多数のリサーチャーが製作過程全般に渡って参加し、映画の内容や描写に目を光らせた。
子役たちを探す旅
フォースター監督は、アミールとハッサンを演じるのは、彼らの文化的背景を真に理解でき、かつ、彼らの夢と友情にナマの生活の息吹を吹き込む技量を持った俳優でなければならないと考えていた。そんな子どもたちを見つけ出すため、彼は『ネバーランド』で子役発掘に才能を発揮したキャスティング・エージェント、ケイト・ダウドの力を再び借りることにした。
ダウドによる捜索は欧米・カナダのアフガン人社会から始まった。ロンドン、バーミンガム、ハンブルグ、アムステルダム、トロント、ニューヨーク、サンフランシスコ、ヴァージニアで大規模な公募が行われたが、数百人のアフガン系の子どもたちとの面接でわかったのは、ダリー語を話せる子は大勢いても、その発音は英語や米語のアクセントを帯びていて、とてもカブールの子どもには見えないということだった。こうしてスタッフたちは、理想のキャストを見つけるにはカブールに行くしかないと気づく。
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ブールに飛んだダウドは、丸一ヶ月を費やして学校や孤児院、爆破で荒廃した遊び場にまで足を運び、これはと思える子どもたちの映像を米国へ送り始める。そして彼女によって候補者が絞られた後、フォースター監督が呼び寄せられた。彼は言う。"アフガンの文化を理解するためにこの旅は欠かせないものだった。人々がどんな風に話し、どう関わり合っているのか。それに単純に今のカブールを見て感じるためにもね"。
彼がまず行ったのは、通常のオーディションではなく、子どもたちを戸外へ連れ出して凧揚げをさせることだった。リラックスして遊んでいる状態の彼らを見るためだ。こうして選ばれたのが、ダウドが地元のリセで見つけたゼキリア・エブラヒミ、ARO(アフガン救援機構)を通じて出会ったアフマド・ハーン・マフムードザダとアリ・ダネシュ・バクティアリである。
ホセイニは三人についてこう話す。"ハッサン役のアフマド・ハーンはまるで少年の体を持つ小さな大人のようで、表情もきらきらしている。彼が微笑むと心がなごむし、彼を見ればとても純粋で強い人間だとわかるよ。アミール役のゼキリアは弱さ、傷つきやすさを持っている。それは表面のすぐ下にあって、それが時折、光を放って透けて見えるんだ。彼には、原作の幼い頃のアミールのように、こずるいところもある。そして言うまでもなく、カブール生まれの彼には11年の人生経験がある。私たちには決してはわからない苦労を彼は経験しているんだ。それが演技にも現れているよ。ソーラブ役のダネシュの聡明さとプロフェッショナリズムにはとても感心させられた。テイクの合間の彼は遊びや悪戯の好きなただの男の子。ところが'アクション'の声がかかると、途端に役になりきってしまう。瞬きする間に彼がソーラブの絶望感、メランコリー、孤立感を、何度でも繰り返し引き出してみせるのを、不思議な気持ちで見ていたよ"。
子どもたちを休学させ、パスポートを申請するためには、3ヶ月もの気の遠くなるような交渉とペーパーワークが必要だった。誰も出生証明書や身分証明書を持っていなかったため、パスポート発行のために何度も政府当局とミーティングを重ねなければならなかったのだ。だがアフガン社会の多くの関係者・関係機関や、外交筋・政府筋からの支援を得て、問題は解決した。
フォースター監督はカブール滞在中に他のキャスティングも精力的にこなした。主要な役にはアフガニスタンの映画や舞台で活躍している俳優たちが起用された。だが俳優の多くはインド映画の影響を受けた演技スタイルだったため、ダウドはあらかじめ選抜した俳優たちに演技セッションを受けさせてから監督に会わせるようにした。また、本作には演技経験のない多くの人々も脇役として出演している。最終的には75%のキャストがカブール出身者で占められることになった。
ハリド・アブダラの献身的役作り
大人の役のキャスティングは、欧米、トルコ、イランにまで範囲を拡げて行われ、その結果、驚くほど多彩で才能豊かな俳優たちが集結することになった。
ハリド・アブダラを監督に推薦したのはホーバーグだった。彼の製作した『ユナイテッド93』でハイジャッカーを演じた彼が強く印象に残っていたからだ。
"アミールが重荷を負うのは、愛ゆえだと思う"とアブダラは彼の役柄について言う。"彼は許されない行為を犯した。そんな彼を非難する人もいるだろう。でも彼はまだ子どもだったんだ。彼は罪悪感を負うけれど、それは結局、彼の感覚が正しいことを示しているんだと思う。彼は過去と対峙するため、そして父やラヒム・ハーンの期待に沿うために個人的な旅に出るが、それはとても勇敢なことだと思うよ"。
ダリー語をまったく話せなかったアブダラは、撮影が始まる前、丸ひと月カブールに滞在し、熱心に言葉を学んだ。その結果、スタッフのアフガン人たちでさえ彼が外国人とはわからないほどの上達をみた。また、彼は毎日町を見て歩き、この国の文化の吸収に努めた。"カブール滞在中は原作を観光案内代わりにしていたよ"とアブダラ。"原作を読み込んで、場所の名前や文化や食べ物など、あらゆるディテールを洗い出し、それからそれが実際にどんな景色なのか、どんな味なのか、触れた感じはどうなのかを見に行ったんだ"。
彼の献身的な役作りはホセイニの心を打った。"今や私は彼を思い浮かべずに大人のアミールについて考えることができなくなってしまった"とホセイニは言う。"彼が6週間カブールでダリー語を勉強し、完璧に習得するまでになったという驚くべき事実に触れておかなければ、私はひどく公正を欠くことになるだろう。でも何より大事なのは、彼がキャメラの前に出た時、アミールの重荷や不確かさ、おののき、罪悪感、困惑が、命あるものになったということだ。彼は自分自身に居心地の悪さを感じている人間を演じてみせた──実際の彼とはまったく違う人間をね"。
原作者の想像力を超えた俳優たち
原作のファンだったイランの俳優ホマユーン・エルシャディは、自分がババ役に相応しいことを監督にアピールするため、カブールまで足を運んだ。"マークが私を選んだ理由は、ひとつには、私が内面から演じる俳優だとわかったからじゃないかな"とエルシャディは言う。彼はババの変化についてはこう語る。"ババはとても強い人間だが、彼の問題はアミールの中に自分自身を見ていない点にある。アミールよりハッサンに自分を見ているんだ。彼はふたりとも愛しているし、アミールの中に自分を見たいと望んではいるが、実際はそういかないため、憤りを覚えている。最後には何もかも変わって、ババはもはやアミールの中に自分を見る必要がなくなるんだ。彼は愛を示す本物の父親だね"。
ホセイニはエルシャディの演技にすっかり心を奪われた。"小説のババは192cmもあって、熊と格闘するような大男だが、ホマユーンはそうじゃない。それなのに彼は、あの生真面目さや力強さ、存在感を表現している。スクリーン上で彼がアミールをしかるところを見れば、これはあなどってはいけない人物だという気になるよ"。
ババの思慮深い親友ラヒム・ハーンを演じるのはアカデミー賞受賞作『クラッシュ』のファラド役で有名なショーン・トーブ。ホセイニは言う。"小説ではババとラヒム・ハーンは互いの秘密も強さも弱さも知る生涯の友で、あうんの呼吸を育んできた間柄。ホマユーンとショーンの間にも同様の化学反応と調和がある。このふたりの間には大きな愛と友情があると納得させる力を彼らは持っているんだ"。
アミールを支える伴侶ソラヤを演じるのは欧米で活躍するアフガン=イラン系女優アトッサ・レオーニ。彼女は、"ソラヤには感心させられるし、彼女から多くのことを学んだような気がする"と言う。"彼女は感じやすく、傷つきやすいと同時に強くもあり、そしてとてもクラシックな女性。夫を賞賛しても、我を忘れることはない人で、それはとてもすごいことだと思うの。彼女の愛の物語は一種の捜索で、そこに共感してくれる人は大勢いると思うわ"。
撮影現場に勢揃いした生身のキャストを前にした時、ホセイニは言葉を失った。"小説を書いた時、私は登場人物の外見や歩き方、視線の投げ方まで明確にイメージを持っていた。ところがひとたび撮影現場を歩いた途端、そんなものはまったく存在しなかったかのような気持ちになった。私の頭の中のイメージは俳優たちの顔や癖、リズム、しゃべり方に、たちどころに取って代わられた。これは彼らの演技者としての力を示すものだね"。
失われた過去のカブールを中国新疆ウイグル地区に再現
本作には現存しない世界が登場する。ソ連軍侵攻により根こそぎ失われた1970年代の活気あふれるカブールと、タリバン支配のために荒廃した2000年のカブールである。これらをどこで撮影するかは大問題だった。1年がかりで約20カ国が検討された末、中国西北の新疆ウイグル自治区がロケ地に決定した。壮大な砂漠を挟むふたつの古都、カシュガルとタシュクルガンは、アフガニスタンと国境を接し、かつてのカブールによく似た外観を持っていた。
カシュガル旧市街では70年代および2000年のカブールの場面の大半が撮影された他、中国最大級の寺院エイティガール・モスクの向かい側の横町が、ラヒム・ハーンのティー・ハウスのあるペシャワールのパキスタン人街として使われた。ババとアミールの国外脱出シーンと、ソーラブ救出シーンが撮影されたのは、世界一高所にある舗装路として有名なカラコルム・ハイウェイ。海抜3,900mのカラクル湖での撮影ではキャストとクルーはパオと呼ばれるテント小屋に宿泊した。
凧揚げのシーンはカシュガルのOstangboye広場で撮影された。"凧揚げ大会は映画の柱となる映像のひとつでなければならなかった"とホセイニは言う。"だが小説では2ページで終わるシーンも、撮影となると大人数が必要だった。300人のエキストラを使い、屋根や通りや電信柱に人を配置するんだ。私にはとても手に負えないと思える物流を操ってみせるマークには恐れ入ったよ。完成した映像では、屋根に雪が積もり、子どもたちが走り回り、色んな色の凧が空にひしめくカブールの町の美しさが、きっとわかってもらえると思うよ"。
ババの屋敷はスタッフが70年代の建築様式を再現し、8週間かけて空き地に建てたもの。家具や絵画までもスタッフの手で製作されたこの家を訪れたホセイニは、"一瞬で70年代に引き戻された"と話す。"あの家は、カブールが国際都市だった時代、アフガニスタンが平和だった時代、そして現在多くの人たちが馴染んでいるカブールのイメージがまだ存在していなかった時代に私を引き戻してくれたよ"。
2000年前の遺跡を有し、"石の町"の異名を持つタシュクルガンでは、70年代のカブール市街の場面や、カブール墓地の場面が撮影された。
北京ではサンフランシスコの場面の撮影が二週間に渡って行われた。北京から3時間のバオディン・スタジアムでは、カブールのガジ・スタジアムでのタリバンによる公開投石刑シーンが1000人のエキストラを動員して撮影された。
中国での約3ヶ月の撮影終了後、撮影隊はサンフランシスコへ移り、バークリーのセサール・チャべス・マリーナ・パークでラストの凧揚げシーンを撮影した。
28カ国ものキャストとクルーが集まった現場では、英語(米国、英国、豪州、ニュージーランド、南アフリカ)、ダリー語、パシュトゥーン語(アフガニスタン)、ペルシャ語(イラン)、ウルドゥー語(パキスタン)、ウイグル語(新疆ウイグル自治区)、タジク語(タシュクルガン)、北京語、広東語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、イタリア語が飛び交った。
カルチャー・ショックと長旅の真っ只中でクルーの結束を保ったものは、本作のストーリーだった、とプロデューサーのE・ベネット・ウォルシュは言う。"困難な時には、自分たちの描こうとしているのが普遍的な物語だとみんながわかっていたことがモノを言った。不運続きの時も、自分たちにはすごく特別なものがあると知っていることで、私たちは結束を保っていられたんだ"。 |
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